渋谷 ザニー。 「自分の創作物には、ミャンマーも難民もいらない」 難民出身のデザイナー・渋谷ザニーさんに聞く

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渋谷 ザニー

1985年1月1日生まれ。 ミャンマーのヤンゴン出身。 1993年 8歳の時、政治的な弾圧から逃れ家族と共に日本へ亡命。 2007年 亜細亜大学国際関係学部国際関係学科卒業。 大学在学中に雑誌モデルとして活動後、ファッション業界に入る。 大学卒業後の2007年から、ファッションデザイナーとなり、2011年に自身のブランド「ZARNY(ザニー)」を立ち上げ国内外問わず高い評価を受けている。 新進気鋭のファッションデザイナーとして、ウェディングドレス、イブニングドレス、映画、ドラマ、ミュージシャンの舞台衣装デザイン等を手がける他、国連UNHCR協会や日本財団との慈善活動にもライフワークとして熱心に取り組んでいる。 夢を叶えるために~学び続ける大切さ~ ジャンル :夢/モチベーション/経験談 聴講対象者 :生徒・学生/一般市民 会の主旨に合わせ、下記のトピックスの中で2~3つの話題を組み合わせてお話します。 A 「私と日本語教育」 正しい日本語の使い方など、自身が8歳の時に満州生まれの非常勤の先生から日本語学級で教わった正しい日本語が、その後いかに社会で役に立ってきたかをお話しします。 B 「私と英語教育」 大学2年次、アメリカの大学に留学した際に学んだこと。 そして海外の恋人たちとのお付き合いで培った、会話力・自己主張・プレゼンテーション力。 自分を出していかないと受け入れられない文化であるアメリカで学んだ、日本で役立つ本当の語学教育とは何なのかを探ります。 C 「歴史からみる8つの成功タイプ」 『人気者』『経営者』『交渉人』『投資家』『貯蓄家』『地主』『開発者』『起業家』の中から自分に適した成功タイプをイメージすることで、社会で自立した姿勢を保つ方法を解説します。 D 「小学校の基礎教育がデザイナーの仕事に役立ったこと」 算数・作文・体育・図工・掃除・部活動の授業などの基礎教育を実社会の仕事現場でどのように役立てられるかを解説します。 企画書製作やプレゼンテーション、会社経営、精力的に仕事をする中で必要な基礎体力の形成、清潔で衛生的な商材を提供することなど、基礎教育は社会人になってから役立つことが沢山あります。 E 「イジメられないための自己表現」 ミャンマーから日本語もわからず、親戚もいない見知らぬ土地に来た8歳の私が学校でいじめられなかった訳をお話します。 (例)クラスの中で係活動や委員会活動に積極的に取り組むこと、得意分野の図工や絵を活用して文化祭・イベントに積極参加する、など。 F 「若者へ、大学進級のすすめ」 現代、少子化社会の中で以前よりも大学入学のハードルが下がってきていることに触れ、学ぶことのチャンスを掴むこと、学ぶことをやめないこと、を強調したいと考えています。 学ぶとは知識を得ることであり、知識が多いことに「得はあっても損はない」ありません。 G 「クラスや社会で自分の存在感を示す社交術」 応援してくれる人が多ければ多いほど成功への道は広がる、という内容を前提にしてデザイナーとしてアイドルやミュージシャン、大物デザイナーとの仕事や交流の中で気づいたことや一般社会で参考にすべき姿勢、社交術や外交術の必要性をお話しします。 H 「情熱は感染する」 応援してくれる人(先輩や後輩、上司や部下、友人、恋人、両親)が自分の夢や情熱に共感し、関心を持ってくれれば成功に近づきます。 最近、自分が何を応援したいと感じたか、と親近感のある身近な出来事を探していくと、ポジティブで活動的な自分を見せることが出来ます。 I 「成長は成功の起源」 自分の役割に合った場所やポジションで「好きなこと」が出来るのであれば、得意でなくても継続した方が良いと思っています。 好きなこと、自分にあっていること、得意なことを成長させ、やり続けるうちに「成功」が生まれることをイメージし、行動しましょう。 J 「好きな人、嫌いな人から学ぶこと」 好きな人と嫌いな人をそれぞれ5名ずつ選び、さらにそれぞれの「嫌なところ」を探してみましょう。 そうすると、自分自身の性格や特徴、嫌な部分が浮き彫りになってきます。 それらを改善・修正することで社会生活で前向きに生きていけることを、経験談を踏まえてお話しします。 出来る人のスーツ・ビジネスカジュアルの着こなし術.

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『ビルマ、パゴダの影で』DVD発売記念!渋谷ザニー氏トークショーイベントレポート|「デザイナーとなったとき難民出身というイメージが着くのが不安だった」最近ビルマ難民であるという事を告白した渋谷...

渋谷 ザニー

まず、この映画についての感想を伺った。 「このドキュメンタリー映画は現実を見せ付けられ、とても荷が重くなるような思いがしました。 飛行機で5時間少し飛んだだけで、リアルな現実として存在する世界がこのアジアにある。 それはアジアにとって、とても恐怖でもあるし、僕にしてみればそこが出生地であるわけですから、非常に重い内容でした」 また、映画の中で気になった点があったという。 シャン民族の少年が「大人になったら兵隊になってビルマ人を殺すんだ」と語るシーンだ。 「市民層の中では少数民族とビルマ民族との間の民族間の隔たりですとか、各民族同士の生活格差というのは特別ありません。 僕の祖父のまたその祖父はシャン民族で商人でした。 少数民族だから貧困だということではなく、貧困を生み出しているサイクルはまた違うサイクルだと僕は考えます。 事実ビルマ民族の貧困層も大変多く存在します。 ビルマにおける少数民族の問題はあくまで軍事政権と少数民族間の問題であり、ルワンダでのツチ族、フツ族の民族紛争のような争いではありません。 少数民族がそれぞれの州ごとに軍を持ち、それらを解除させる一貫として軍部は少数民族の農村を襲撃し、また略奪を繰り返すのです。 ひとりの幼い子どもの、とても悲しい現実です」 民主化運動幹部だった渋谷氏の父親は、1988年の軍事クーデター後、弾圧を逃れ日本へ来た。 その5年後に渋谷氏も母親と共に来日、彼が8歳の時だった。 その後、難民として認められるまで6年かかったそうだが、難民であることに対しどう思っているのだろう。 「日本で1993年に家族三人で一緒に暮らせることになって、家族と安全な場所で暮らすということが僕たちにとっても最も重要なことでしたので、僕たちの望みは叶ったというような考えをしていました。 しかし、そういうわけにも行かずその先に存在する様々な生活の困難を乗り越えてきました。 1995年に父親が難民申請の手続きを始め、その後、2001年の僕が高校2年生の時に難民として認められたのです。 在日インドシナ難民の子ども達と会ったことがありますが、彼らはみんな難民であることや、どこの出身だということで、恐らく日本社会に対しての劣等感を持っており、ネガティブな感情があるように感じられました。 でも僕はそういうことをひとつも気にしたことがなくて、アルバイトで受け入れてもらえなかったという経験はありますが、ほかの日本人の友人だって苦労なしで今まで歩んできた方はいないですし、自分がどう差別されたとか、偏見をどうもたれたとかではなく、どうそれらを乗り越えるかが一番重要だと思っています」 昨年、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の小冊子に「ザニーさんの挑戦」というタイトルの記事が掲載された。 渋谷氏はこの記事で初めて、自分が難民であるということを公表した。 「デザイナーとなった当初は、出身地がどこで難民であるかどうかが、僕の企画したものに関して、何かイメージが持つのではないかという不安がありました。 これは僕の場合でなくても考えられることですが。 そのため特別、自分が難民だとは言いませんでした。 僕は自分の実力で、自分の個性で認めてもらいたいって気持ちが強かったので、特別には公表していなかったのです。 ですが、1年前にミャンマー/ビルマで民主化デモがあって、僕と同世代の若い僧侶をみて、彼らは果たして宗教的な思想があって僧侶になっているのか。 また、それらを弾圧している兵士も同様の同世代で、彼らも果たして政治的な思想を持って弾圧を行っているのかと疑問がありました。 ひとつ考えられたのは、生活苦で僧侶になる選択をし、生活苦で軍隊に入り兵士になるという選択をしたのではないかということでした。 とても寂しい思いを感じました。 僕はまたそこで、自分に対し深い罪悪感を持ちました。 自己満足だろうって言われるかもしれませんが、悲劇で孤独な国ミャンマー/ビルマというのが僕の出生地で、皆さんが着る服を作っているのは僕なんだ、というのを知ってもらいたかったのです。 そのために公表を決意しました」 昨年のデモ弾圧の後、ビルマを襲ったサイクロンでもたくさんの悲劇があった。 渋谷氏はひとりの力は微力だが、何かをしたいという思いから、仕事で交流のあるファッション業界の人々の協力を得てアパレルの店舗にUNHCRの募金箱を設置する活動を始めた。 まずは、世界の現状や難民問題を多くの方に知ってもらうことが重要だ。 DVD『ビルマ、パゴダの影で』.

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渋谷ザニー プロフィール|講演会・セミナーの講師紹介なら講演依頼.com

渋谷 ザニー

朝刊に目力凛々しい男性の写真が! お一人は名前からもイケメン俳優かと思いました。 難民出身のデザイナー、渋谷・ザニーさん。 8歳の頃は言葉のわからない日本で何もかも怖く泣いていたという。 お父様は()の大学で運動の幹部だった。 88年の軍事クーデター後、弾圧を逃れて日本へ。 日本語を覚えたが高校時代、バイトはすべて拒否された。 モデルとしても活躍したが難民であることを隠さなければ生きられないと思った。 昨年9月で僧侶らのデモが弾圧され転機となる。 ()の日本の小冊子で難民と告白。 の募金箱の設置を始める。 さんが言っていたが日本人は幸運で日本語だけで暮らせる。 世界には難民となり自国語だけで暮らせるはずもない人が大勢いると。 侵略受けた国の人そうですね。 もうお一方は現職警察官でただ一人されている仙波敏郎さん。 無報酬で警察の裏金について3年間、全国で講演している。 ニセ領収書作成を拒否し、拳銃を取り上げられ巡査部長試験合格後の昇任は一度もない。 針のむしろのような報復人事とも闘う。 17回も転勤させられた。 随一の名門松山高校卒業。 前身はの『坊ちゃん』の舞台の旧制松山中学であり、の母校でもある。 警部補試験の学科は「合格」でも『領収書』を書かないから。 ちょうど借りている雑誌世界にも載っている。 『県警の捜査協力費を試算してみると告発当時は1億3000万円ほどあったものが今は3000万ぐらいに減っている』現職警察官の告発の意義は大きい。 今もホームの一番前には立たない。 並大抵の勇気では出来ないこと。 親戚の子が警官になったが警察学校内で泥棒がいてやめたいといっていた。 まじめな現場の人が苦しむのはどの世界でもある。 救急者呼ぶのもはばかられ亡くなった奥様、生きるうえでのさまざまな執着を失い『死にたいんじゃない、明日がいらないんです』胸が痛い。 「裏金つくりは犯罪。 だから警察幹部は犯罪者、警察は犯罪組織です。 …懲戒処分も注意されたこともありません。 真実を言っていますから」 「偽造領収書の作成は警察官が昇任する際の『踏み絵』として半ば強制されており、これを書かない限り上級へは昇任できない仕組みだ」 「私が裏金の件で一番残念に思うのは正しい知識、能力のある者が幹部にいないことです。 裏金が横行するとまともな能力のある者が芽をつまれてしまう」 「志をもって警察学校にはいっても卒業した瞬間に(裏金問題で)グラッと崩れる。 現実を見るんです。 五十歳をすぎて(ニセ)領収書を書かずにおれるのは下で二人しかいないんです」 仙波氏は裏金問題の一方で、犯罪検挙率が下がってきていることも指摘します。 警察が好きで警察をよくしたい、というのが告発の最大の動機なのです。 県警は告発後、仙波氏のから通信指令室主任への配置転換を命令しますが、他方、〇四年度の報償費の執行額も当初予算の半分以下にとどまる見通しであることなども明らかになりました。 その影響はしだいに出ています。 「闘い 警察を愛すればこそ」 警察の真実 操作費横領システムの闇 riboni5235.

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