小島 令子 釣り 引退 なぜ。 お菓子系アイドル一覧とは

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小島 令子 釣り 引退 なぜ

通称「 ひょうきん族」「 ひょうきん」。 概要 に『 決定! 土曜特集・オレたちひょうきん族』のタイトルで、中止時のとして放送され、同年より『決定! 土曜特集』の冠を取ってレギュラー放送となった。 そのため、土曜日に(や、主催の戦)がある時はしばしば番組が返上された。 放送当時、社内では視聴率ノルマが廃され、制作者が作りたいものを作る路線に転じ、「楽しくなければテレビじゃない」をキャッチフレーズにしていた頃で、作り手側の制作意欲の向上と、出演者である若手芸人のによる勢いとが相まったバラエティ番組である。 開始当時のには『』が放送されており 、雨傘番組時代の初回は9. 『』以降低迷状態が続いていたフジテレビの土曜20時台を立て直し、バラエティのリーダー格番組に登り詰めた。 8年半の平均視聴率は、17. 最高視聴率はのスペシャル回での29. 通常回での最高視聴率はの27. 1984年度の年間平均視聴率で19. 5%を記録し、ライバル視していた「8時だョ! 全員集合」の年間平均視聴率18. しかしの暮れに、たけしがを起こして謹慎に入り、番組のメインコーナーである タケちゃんマンが たけし不在となったことや、裏番組である「全員集合」の後継番組「」の猛攻もあり、視聴率は下落し始める。 1988年には「加トちゃんケンちゃん」に逆転されてしまい、視聴率低下に歯止めが利かなくなった。 そして1989年10月14日、「ひょうきん族」は特番時代から通算8年5ヶ月の歴史に幕を下ろした。 また、に代表される在阪のプロダクションと、・に代表される東京のプロダクションのタレントがレギュラー番組で共演することが当時としては非常に画期的であり、本番組の人気は吉本興業の東京進出 に多大な貢献を果たした。 初めはお笑い番組らしく漫才コーナーもあったが、「つまらない」「人気が出ない」と見るやすぐに企画をやめ、新企画を練っていた。 また、初期においてはスタジオに一般視聴者を入れてのコーナーもあったが、その後は客は入れず、ギャグごとに笑い声が被さる演出(・ラフトラック。 外国のでよく見られる、いわゆる声の)がなされた。 オープニングに流れる曲は、作曲の『』。 これは『』のオープニングをパロディしたことによるもので、放送当初は『スネークマンショー』のがナレーションを行っていた。 オープニング映像は、初期は単純な合成映像が使われたが、4月から使われた制作によるオープニングでは、当時としては珍しい最先端の映像を使用している。 エンディングはの『』。 EPOは番組初期のも担当していた。 それ以外のエンディングは後述参照。 番組のBGMには、『』、『』、『』、『』、『』、『』、『』、『』、『』、『』、『』などのがよく用いられていた。 スタジオ以外でのによる撮影は、当時フジテレビの本社があったやフジテレビ通り(現・通り商店街)一帯で主に行われたが、北海道や軽井沢などでも行ったことがある。 - には計5巻の(それぞれ3枚組)が発売されている。 また、では、放送分と放送の最終回スペシャル「TAKECHANマン忠臣蔵」を閲覧することができる。 の『』は『』と題し、当番組をベースにからにかけて放送された。 これは、ひょうきんディレクターズの一員で2代目プロデューサーだった三宅恵介が定年を迎えるにあたり、「もう一度ひょうきん族をやりたい」と、メインキャストのビートたけしと明石家さんまに声をかけたことから実現したもので、さんまが総合司会、たけしが19年ぶりの出演となった。 たけし・さんまの他にも、島田紳助、山田邦子、片岡鶴太郎、ラサール石井、渡辺正行、大平サブロー、島崎俊郎、ジミー大西、村上ショージなど、本番組のメンバーも集結。 オープニングも当番組派生のキャラクター『』によるテーマソング『世界の国からナンデスカ』の歌唱から始まり、本番組と同じ『ウィリアム・テル序曲』がテーマソングとして流され、『懺悔室』のコーナーでエンディングを迎えるなど、本番組のテイストがふんだんに盛り込まれた内容となった。 出演者 レギュラー• (特番第7回から出演)• (レギュラー放送より出演)• (当時)• (当初はサブロー名義で出演)• (当初はシロー名義で出演)• (1982年5月初出演。 同年10月からレギュラー。 石井章雄(現・)• (アッパー8、『懺悔の神様』役)• (1984年より以下の一部メンバーが出演)• (1982年4月より出演)• (1984年より出演)• (1984年より出演)• そのまんま東(、後期のみ出演)• (後期のみ出演)• (1984年より出演)• (1982年より出演、レギュラー出演は1985年より)• (1985年より出演)• (1985年より出演) 準レギュラー・一時レギュラー 特番時代(1981年5月 - 1981年8月)• ビートきよし(ツービート)• 松本竜介(紳助・竜介)• 伊丹幸雄• 春やすこ・けいこ• 九十九一 - 1984年3月頃まで• 安倍律子(現・)• 若人あきら(現・)• (有名な「」に因み、ハチので出演)• (の雌牛) 1981年12月 - 1983年頃• 決め台詞は「ガッチョ〜ン」) 1981年12月 - 1983年頃• - 、、• - 、、• 上方よしお(のりお・よしお)• 里見まさと(ザ・ぼんち)• (ビジーフォー)• (ビジーフォー)• オール阪神・巨人• クルミ・ミルク(ビートたけしがミルクの方を、女性ではあるが顔と太目の容姿を見て「お笑い界の」と呼んでいた)• - 、、• - 、ドン川上(現・)• 1983年4月 - 1985年• [ 要曖昧さ回避]• 1983年10月 - 1985年8月• 1985年4月 - ?• 松村花子(アダモステの横で三味線と合いの手を入れていた)• また、安岡・日吉・山本は最終回にゲスト出演した。 後期(1985年10月 - 最終回)• キャメロット• 天久美智子()• がってん娘• (声:)• 三田佳代• 松村花子• 浅川奈月(「ひょうきんベストテン」でを演じていた)• - 清水美子(現・)、• - きりこ(現・)、りん、ゆうこ• (たけし軍団)• - 中野真里子、阿本真亜子• 大島智子(現・)• (アッパー8、 出張懺悔の神父役) ほか フジテレビアナウンサー レギュラー(「ひょうきんベストテン」司会担当)• 山村美智子(現・)(1981年5月 - 1985年3月)• (1985年4月 - 1986年9月)• (1986年10月 - 1989年4月、1989年10月) 準レギュラー• (1983年 - 1984年ごろ「朗読の部屋」ほかコーナー進行)• (1984年ごろから不定期出演)• (1985年ごろから不定期出演)• (1986年4月ごろから「ひょうきん私の秘密」コーナー進行)• (「ひょうきんスペシャル」に数回ゲスト出演)• (1989年ごろから不定期出演)• (1986年7月ごろから「青春グラフティ」コーナー進行)• (1987年6月から1987年10月まで「関根くんの知られてる世界」コーナー進行)• (1987年10月から「ひょうきん流行通信」コーナー進行) ほか、、、などがチョイ役で出演。 オープニングナレーション• 初代 0:(「ひょうきんベストテン」にもゲスト出演) 使用期間 : 1981年5月16日 - 1982年3月27日• 2代目: 使用期間 : 1982年4月3日 - 9月11日• この期間は、週替わりでアニメ声優が担当。 詳細は後述 使用期間 : 1982年10月2日 - 1983年9月24日• リスナー向けに「こんばんはチャコです」と挨拶。 「そうよ、わたしは負けないわ。 加藤はよし子を数年ぶりに演じることになったが、平井がサリーを演じたのもこれが最後となった。 土曜特集 オレたちひょうきん族 1981年5月16日から8月29日まで『決定! 土曜特集』枠で放送されたパイロット版。 同年10月10日から『決定! 土曜特集』の枠を取ってレギュラー放送された。 2009年10月からで全放送分が放送された。 出演者• 番組リスト• 第1回(1981年5月16日)初回視聴率9. オープニングコント「晩餐会」 - このコントは、レギュラー放送最終回(1989年10月14日)のエンディングで再現された。 「」初登場• 「ひょうきんニュース」初登場• 「のネタ見せコーナー」初登場。 ネタは「の青春」。 レギュラー放送初期のコーナー「ヒップアップのひょうきんな青春」の原型。 「ひょうきん族ベストテン」初登場。 司会は・栗山順子が務めた。 記念すべきこのときの第1位は、の「ラヂオ」• 「ひょうきん刑事PART1「衝動殺人! 」」 - 主役:ビートたけし。 エンディング曲は「星に願いを」• 第2回(5月30日)視聴率8. オープニングコント「オーケストラ」• 「ひょうきん族ベストテン」 - 第1位はビートたけしの「いたいけな夏」。 「ゴルゴ17」 - 主役:。 この回のエンディングからEPOの「DOWN TOWN」に変更。 第3回(6月6日)視聴率8. オープニングコント「ビリヤード」• 「ひょうきん族ベストテン」 - 第1位はの「MAIDO」。 「根性一代記 浪花のド阿呆」 - 主役:。 第4回(6月13日)視聴率10. オープニングコント「ダンスパーティー」• 「ひょうきん族ベストテン」 - 第1位はの「潮風の香りの中で」。 「カメとサラリーマン〜大人の童話より〜」 - 主役:。 第5回(6月27日)視聴率10. オープニングコント「オーケストラ」• 「ひょうきん族ベストテン」 - 第1位はビートたけしの「いたいけな夏」。 「じゃぱにーずぐらふぃてぃ」 - 主役:ザ・ぼんち。 第6回(7月11日)視聴率9. オープニングコント「オフィスレディ」• 「ひょうきん族ベストテン」 - 第1位はビートたけしの「いたいけな夏」2週連続ランクイン。 「ザ・シネマ「七人の恋人」」 - 主役:のりお・よしお。 第7回(7月18日)視聴率13. オープニングコント「赤ん坊」• 「ひょうきん族ベストテン」 - 第1位は「」の「雨の権之助坂」。 「2001年THE・TV」 - 主役:ビートたけし。 このコントでパイロット版の「タケちゃんマン」が初登場。 「」初出演• 第8回(8月29日・決定! 土曜特集版 最終回)• オープニングコント「白鳥の湖」• 「ひょうきんプロレス」初登場• 「ひょうきん族ベストテン」 - この回は、視聴者から送られてきたハガキからランキングを決めた。 その結果、第1位は明石家さんまの「いくつもの夜を越えて」。 「」初出演• 「」初出演• 「想い出しましょうあの場面」進行役:ビートたけし - この回までに放送したコントの中から名場面やNG集をたけしのトークを交えて観客と見ていくコーナー。 CSでの再放送時に関して 1998年にが開始されてからは、当番組の再放送を常時放送し、2009年8月8日にCSにおいて2度目の最終回を迎え翌週8月15日から3度目の放送を開始した。 だが、2011年8月23日の島田紳助の芸能界引退で、紳助の出演番組の2次利用が使用不可能になったことを受け、ひょうきん族のほぼ全ての回に 紳助が出演していたため、CSの放送は打ち切られ 、CSのホームページも閉鎖された。 また、紳助が不祥事を起こしてタレント活動を自粛した期間は、放送を一時中断していた。 CS放送中、権利上や諸事情により放送されない場合があった。 また、放送はするもののコーナーそのものがカットされたり、ひょうきんベストテンの10位から4位の発表時にボカシが入ったり、映像が静止画に差し替えられたことも少なくなかった。 レギュラー第1回放送分も、何らかのコーナーが10分程度カットされている。 再放送がカットされたケースは現在のところ以下の通りである。 1982年9月4日のTBSドラマ『』との連動企画を行った回• サザンオールスターズの出演した回• オフコースの出演した回• シブがき隊、少年隊などの所属タレントの出演した回(過去に在籍した人も含む) 同事務所は、基本的にCSにおける過去番組放送を許可していないが、 やではドラマを中心に再放送されるケースもある。 また、地上波番組宣伝は放送される。 所属タレントの出演した回(過去に在籍した人も含む) 内藤やす子が出演した回はDVDには収録されている。 キヨちゃんマン(タケちゃんマンの脇役キャラクター)の登場する回• の出演した回 再放送時に不祥事が報道され、放送を控えていたが、2010年に田代が再び不祥事を起こしたために放送自粛となった。 1985年3月30日放送分の山村美智子が番組を卒業した回• ナンデスカマンロボの登場する回• ビートたけしが収録をサボタージュした回 ちなみに、ひょうきんスペシャルの回はレギュラーと分けて放送。 1982年12月25日のブラックデビル最終回もこの類に入る。 2002年の秋までスペシャルを放送。 2003年の元日にスペシャルのみを集中放送した。 しかし、2006年から1985年12月放送以降のスペシャル版も通常の枠と一括され放送されるようになった。 また、1981年5月16日 - 9月26日の単発枠時代に放送した回は、2009年で「パイロット版」として放送した。 2009年8月15日から、不定期で三宅と番組出演者、川端健嗣のトーク番組『ひょうきん族話の泉』が放送された。 主なコーナー• (特番では時代劇コントの主役を演じた)• 藍田美豊• 佐々木功(現・)• (当時・藤井郁弥)• (ただし、当時GENJIのメンバーだった者のみがゲスト出演)• (当時・佐藤敦啓)• (現在は女優だが、歌手として出演していた)• (俳優としても活動している) 俳優・女優• (・)• (・・)• ・夫妻• (ビートたけしの母)• スタッフ 構成作家やプロデューサー・ディレクターの姓と名の間には、あだ名のが付けられていた。 作・構成:、、、、榎ハーレム雄一郎、廣岡サモア豊、、、、益子ニクマン強、、、本郷ミズワリ実、小笠原ヒッコシ英樹、、、、、、• 技術:渡辺宏、• TD:岩沢忠夫、森野憲俊、島本健司、菅原一夫• カメラ:藤江雅和、岩沢忠夫、高田治、島本健司、柴崎進、藤本敏行、田中祥嗣、、小山茂明、花島和弘• 音声:間野目政孝、篠良一、油谷真一、石井俊二、深谷高史、松本政利、杉山直樹• 映像:都築和夫、油谷忍、谷古宇利勝、瀧本恵司、田畑司• 照明:小宮俊彦、熊田則文、石井健治、藤井梅雄、八木原伸治• ロケ技術:、伊藤修一、中島光男• 美術:鈴木武治、重松照英• デザイン:高橋幸夫、、水上啓光• 美術進行:小野秀樹、藤田弘、、金子隆、船場文雄、伊藤則緒• 大道具:樋口雄一郎、今井吉一• 装飾:村木隆、中村俊介、鎌田徳夫• 持道具:松倉一郎、若林一也、藤井直也• アクリル装飾:高信作、佐藤則雄• 衣裳:城戸政人、佐藤方子• メイク:青柳いずみ、今川由美子、三田万里子、安部真人、平山美恵子、山崎富美枝• 床山:牧野勇• 視覚効果:木原正、高橋信一、中溝雅彦• 電飾:吉留正雄、福田喜作• タイトル:山形憲一• 編集:今井克彦・鈴木敬二・瓜田利昭・植松巌・石附順一()• CGテクニカルディレクター:小高金次• CGデザイナー:山田みどり• 音響効果:玉井実()、川島明則()、戸辺豊• 振付:• 広報(最終回のみ):山本政己• 制作スタッフ(クレジット無し) :窪田豊・・・佐藤一巳・豊島浩行・ ・・(アシスタントディレクター)、丸山史・楮本真澄(タイムキーパー)他• ディレクター :(初回 - 1987年8月)、永峰アンノン明、、、(初回 - 1987年8月)• プロデューサー:(初回 - 1987年8月)、三宅恵介(1987年9月 - 最終回/ディレクター兼務)• 制作著作:フジテレビ ネット局 系列は当番組終了時(1989年10月)のもの。 秋田テレビ・テレビ長崎・テレビくまもと・テレビ宮崎の4局は土曜20時台はフジテレビ系列番組枠だったため当初から同時ネットで放送された。 福島テレビ・新潟総合テレビの2局は、開始当初はクロスネット局だったため1983年9月までは遅れネットで放送されていた。 福島テレビは開始当時の土曜20時台は制作の『』をネットしていたため、本番組は開始当初は遅れネットだった(放送時間帯は、開始当初は1時間遅れの土曜21時(つまり、下記のテレビ山口と同様「8時だョ! 1983年4月にTBS系列との(1983年3月まではFNSのみ加盟)からフジテレビ系列フルネット局に再びネットチェンジ(JNNを脱退し、に加盟)したものの、ネットチェンジと同時に本番組には切り替えずに、視聴者保護のため同年9月まで『』を継続して同時ネットで放送されていた。 新潟総合テレビでは1983年9月までの土曜20時台はテレビ朝日系列番組の同時ネット枠だった。 そのため、本番組は開始から水曜16:00から放送されていた。 福島テレビはフジテレビ系列マストバイ化で、新潟総合テレビはテレビ朝日系列の開局に伴うフジテレビ系列フルネット局化で、2局とも1983年10月から同時ネットとなった。 当時日本テレビ系列とテレビ朝日系列のトリプルネット局だったテレビ大分と、日本テレビ系列とのクロスネット局だった鹿児島テレビの2局は日本テレビ系列番組の同時ネットを、1987年9月までフジテレビ系列とのクロスネット局(FNSのみの加盟)だったテレビ山口はTBS系列番組の同時ネットをそれぞれ放送していたため、当初から遅れネットで放送されていた。 テレビ山口ではフジテレビ系列番組枠だった土曜19:00から1週遅れで放送されていた。 つまり、「8時だョ! 全員集合」などザ・ドリフターズのメンバーが出演するライバル番組と連続で放送されていた。 なお、このため制作の『』は遅れネットとなり、TBS制作の『』はネットされなかった。 そして、(CS放送)でも再放送を実施していたが、島田紳助引退の影響で2011年8月から放送を休止しており、実質的に打ち切られた状態となっている。 番組の終了とその後 末期の1988年頃には視聴率が一桁台になる回が多くなっていった。 この頃には同番組の顔であるたけしが1986年12月にを起こして以降、収録をボイコットするようになり ほとんど出演しなくなったため、「タケちゃんマン」の代わりに「かまへんライダー」を入れる、「ひょうきんベストテン」を終了する、『全員集合』に似た形式の公開収録をたびたび行なうといったテコ入れを施すも、結局視聴率を回復させるには至らなかった。 当時さんまは、多くの出演者が多忙なスケジュールで疲れていたうえに、楽屋では笑いに貪欲だった頃と打って変わって(副業や投資による)金儲けの話や将来の話しかしなくなり、そんな状況に嫌気が差していたたけしの「もう(番組を)終わりにしたい」という旨の発言などを受け、スタッフからさんまに番組存続か終了か最終の決定権を委ねられたので「やめます」と言ったことで、(1989年9月に)終了することが決まったと後年語っている。 なお、番組終了後にたけしが『』にゲスト出演した際「なんでアレ(ひょうきん族)終わっちゃったの? 予算がなくなったから?? 」とさんまに問うたところ「アンタが終わりにしたいと言うたからやないか!! 」と突っ込まれていた。 後年、さんま曰く「まあ、ほっていても終わってたとは思いますけど。 でも早めたのは事実です」としたうえで、たけしが「さんまという"毒"を飲み過ぎて、おかげで意外と番組が早く終わった。 毒で『全員集合』をやっつけたけど、その毒で自分たちも終わっちゃった」と独自の表現で番組終了について説明した事を明かしている。 1989年10月14日に最終回を迎えた。 最終回はのパロディ(浅野内匠頭と大石内蔵助はたけし、吉良上野介はさんま)を行いつつ、歴代キャラクターが総出演する『タケちゃんマン忠臣蔵』が行われた。 エンディングでは、1981年5月16日の単発放送時オープニングで出演者たちがディナー・コントをする場面を、1989年10月14日時点の出演者で再現。 放送開始時ディナーの最後にビートたけしが「オレたち! 」と叫んだ後、他の出演者全員で「ひょうきん族!! 」と叫んで番組が始まったのを、最終回でも再現し、ディナーの最後にビートたけしが「オレたち! 」と叫んだ後、他の出演者全員で「ひょうきん族!! 」と叫んだ後、ビートたけしが続けて「おしまい! 」と言い、間をおいて「さあ帰りましょう! 」の言葉で締められた後、最終回エンディング曲が始まり、出演者・番組スタッフの拍手歓喜の中、エンドロールが流れ始め、ディナーテーブルのセットがあるスタジオから、次々に出演者 が去り、照明が落とされ、スタッフの三宅恵介・荻野繁が見守る中、ディナーテーブルだけが照らされ、最後は「長いあいだ本当にありがとうございました」のテロップで締められ、8年半の歴史に幕を閉じた。 ちなみに、単発放送時でのこのコントのBGMは「」の「春」で、最終回には同曲の「秋」を入れたが、ほとんど誰も気づいてくれなかったと『ひょうきん族話の泉』で三宅が明かしている。 なお、最終回エンディング曲は、EPOの「DOWN TOWN」(ニューレコーディングバージョン)だった。 なお、タケちゃんマンの忠臣蔵に登場した歴代キャラクターは• 桂三枝 サブロー• ナンデスカマン さんま• 九官鳥のキューちゃん 鶴太郎• アダモステ 島崎• お花畑コンビ たけし・さんま• 田原総一郎 石井• マイ爺さん 鶴太郎• 横山やすし・西川きよし サブロー・シロー• 泉アツノ 邦子• ホタテマン 安岡• タネマキトカゲ シロー• 山田教授 シロー• ゴックン娘 リンダ・ミミ• 西川のりおとフラワーダンサーズ のりお・ヒップアップ・赤信号• おまち娘 さんま• パーデンネン さんま• 浜村淳 サブロー• 奈良の春日野 さんま・渡辺• 工藤静香 邦子• 砲丸の美少年 さんま• 芦屋雁之助 シロー• ピヨコ隊 鶴太郎・ウガンダ・ヒップアップ・赤信号• 洗濯女 紳助• おとぼけブラザーズ たけし・さんま• ツッタカ坊や のりお• ちょっといいですか神父 さんま• レトロなんやそれ さんま• 懺悔の神様 ブッチー• 知っとるケ さんま• バイキンガーZ さんま• トン・ティン・タン・カッパ さんま• アミトリおばさん さんま• 石井社長 石井• かまへんライダー さんま・石井・ショージ・政二・オクレ• コーモリ星人 紳助• 狩人 のりお・おさむ• カスタネットマン たけし・さんま• 鬼瓦権蔵 たけし• アミダばばぁ さんま• タケちゃんマンロボ たけし• ブラックデビル さんま• タケちゃんマン たけし 登場順。 「ひょうきん懺悔室」などが終わると同時に番組は完全に終了して曲のみを流し、その日のダイジェストをCG映像内の小さい映像で流しながらスタッフロール・提供クレジット・エンドカード を流すという手法だった。 これは後年当枠で放送された『』や『』にも受け継がれていた。 しかし直前で発売中止となり、2017年現在まで発売されていない。 原因は不明。 土曜の夜はパラダイス 1982年10月 - 1983年2月 麻香ヨーコ グラマー・ボーイ 1983年3月 ED放送の前年1982にシングルレコードで発売された曲で、当番組のエンディング用に用意された曲ではない。 歌詞に「土曜」のキーワードは入っておらず、4回しか使用されなかった。 2017年現在までCD化されたことはなく、歌手の麻香ヨーコもこの曲以外で、特に目立った芸能活動は確認できない。 1983年4月 - 1983年11月 1982年に再リリースされた の「」のカップリング曲。 歌詞に「土曜」のキーワードは入っていない。 DOWN TOWN (ニューレコーディングバージョン) 1984年10月 - 1985年9月 1989年10月14日 1984年10月放送用にテレビスタジオで収録されたアレンジバージョン。 当初は演奏シーンともにエンディングに流れた。 そのためこの演奏形態でのDOWN TOWNはEPOのレコードおよびCDには収録されておらず、当番組のエンディング映像以外での視聴は困難である。 最終回のエンディングでは、提供紹介時も含めて、ほぼフルコーラス使用された。 山下達郎 1985年10月 - 1986年9月 1986年10月 - 1987年9月 1987年10月 - 1988年9月 1988年10月 - 1989年9月 卒業写真 1989年10月7日 最終回直前スペシャルのエンディングテーマ 関連項目• (1998年12月19日放送) 脚注 [] 注釈• 尤も、吉本自体大正時代には早くも東京に進出しており、当時東京最大の歓楽地であったに劇場を建設、戦前にはプロ野球のの設立や映画会社の経営に関与するなど全国規模での活動をしていたが、戦後の浅草の急激な斜陽化とともに吉本は撤退した。 その後に上京する芸人のマネジメントをする「東京連絡事務所」を設立していたが、社員は2名のみと戦前と比較して小規模な状況でのスタートだった。 ビートきよしの出演が無くなってからは『ツービート』表記は無くなった。 初代OP時でのクレジット上での扱いは正式レギュラーが顔つきで紹介された後に、タレント名だけがテロップで表示される、いわゆる準レギュラー格での扱いで、正式レギュラー扱いとなったのは1983年4月、3代目のOPに切り替えられてからのことであった。 一時、裏番組『』()に出演して番組を離れるも1982年に復帰。 「ぼんちおさむ」を名乗るようになってからも当番組では「おさむ」名義のままだった。 『赤信号』名義• 当初は本名の「松尾憲造」名義• 収録の度に牛を連れてから来ていたが、ビートたけしの発案で番組に出演するようになった。 ただし、衛星受信の放送のみに許可されており、IPTV向けの放送では許可されていない。 最終回では「SPECIAL THANKS」として表記。 栗原は「ひょうきん族」で接したジミー大西を見てドラマ『』の主人公の着想を得たという。 1982年に「ひょうきんディレクターズ」としてレコード「ひょうきんパラダイス」をリリースした。 最後に退場した山田邦子にスタッフから大きな拍手が送られた。 これは『ひょうきん族』の流れを『』で継ぐ意味もあった。 翌週が特番やナイター中継の場合はその告知。 なお、初期の放送や「ひょうきんスペシャル」では提供・エンドカードはCMを挟んで別途表示していた。 2004年9月10日「懐かしのお笑い、なぜ人気(サブch. [ リンク切れ]• 90sチョベリグー 2020年4月19日閲覧• このことを1989年10月14日に放送された 最終回スペシャル タケちゃんマンの忠臣蔵で さんまから、「今日は早退とかは絶対するなよ」と言われている。 『』()2015年1月18日放送より。 『』(系)2018年10月15日放送より。 スポニチアネックス. スポーツニッポン. 2018年10月16日. 2018年11月26日閲覧。 『朝日新聞』1989年10月14日付朝刊、32面、テレビ欄。 『』タワーレコード オンライン商品紹介 外部リンク• 土曜20時台 前番組 番組名 次番組• (1987年 - )• (1987年)• (1987年 - 1993年・1996年)• (1987年 - 2000年)• (1988年 - 1989年)• (1990年 - 1992年・1996年 - 2003年・2005年 - 2007年・2017年・2020年 - )• (1987年 - 1990年・1992年 - 1996年・1998年 - 2001年・2004年 - 2013年)• (1990年 - 1992年)• (1991年)• (1992年 - 1995年・2019年)• (1992年 - 1994年)• (1996年・1998年 - 1999年)• (1992年 - 1994年)• (1992年)• (1994年)• (1994年)• (1995年・1997年・2009年)• (1995年)• (1995年・1997年・2002年 - 2006年、2011年 - )• (1997年)• (1997年 - 1998年)• (1998年 - 2004年)• (1998年)• (1998年)• (1998年・2001年・2004年 - 2005年・2008年 - 2015年)• (1998年 - 2000年・2007年・2011年 - 2014年)• (2000年・2007年)• (2001年 - 2007年・2011年 - 2012年・2015年)• (2001年 - 2003年・2006年)• (2001年 - 2003年・2005年)• (2001年)• (2002年)• (2003年)• (2004年・2011年 - 2012年・2015年)• (2004年・2008年 - 2012年)• (2005年)• (2005年)• (2005年)• (2006年)• (2006年 - 2012年・2016年)• (2006年 - 2011年)• (2006年 - 2007年)• (2008年・2014年)• (2008年・2019年)• (2008年 - 2010年)• (2009年 - 2010年)• (2009年 - 2012年)• (2009年 - 2010年)• (2011年 - 2013年・2016年 - 2018年)• (2011年 - 2013年)• (2011年)• (2011年)• (2011年・2015年)• (2011年)• (2012年)• (2011年 - 2012年)• (2011年 - )• (2012年・2014年)• (2012年)• (2013年)• (2013年)• (2013年)• (2013年)• (2014年・2016年)• (2015年)• (2016年 - )• (2016年 - 2018年)• (2016年)• (2016年)• (2016年 - 2017年)• (2016年)• (2017年)• (2017年)• (2017年)• (2017年)• (2017年 - )• (2017年 - )• (2018年 - )• (2019年) スピンオフ.

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児島玲子は釣り師プロアングラー!お店が閉店したのは結婚準備?【爆報フライデー】

小島 令子 釣り 引退 なぜ

児島玲子さんとは 出典:フェイスブック• 名前 児島 玲子• 読み こじま れいこ• 生年月日 1974年7月20日• 出身地 神奈川県• 身長 167㎝• サイズ 86・60・88 3歳年上の兄がいているそうです。 フリーターだった10代にスカウトされて芸能界入り。 主にグラビアなどモデルで活動しており• 第1回ミスヤングマガジン準グランプリ• アサヒビールイメージガール• 富士フィルムFinePixイメージガール を務めていました。 様々なオーディションを受ける中で 「釣りロマンを求めて」の出演が契機で 日本初の女性プロアングラーとなります。 シマノ社さんのイメージガールを10年間務めました。 その4年後にライバルのダイワ社さんと フィールドテスター契約を結んでいます。 これには釣りファンも驚いたみたいですよ。 児島玲子さんはプロアングラー 釣り番組に出演し始めの頃と企業の イメージガールに抜擢されていきます。 モデルの世界は華やかですよね。 なぜ男性ばかりの釣りの世界へ進んだのか気になりますね。 20代半ばに友達が出産していく中で、• 飽き性で徹底的にやった事がない• 母親になっても子供に教えられることがない そう考えると寂しく感じたと語っています。 このような理由でハマっていきました。 当初は結婚して辞めると思っていたそうです。 今となっては釣りを始めて約20年も経ちました(笑) こんなDVDまでリリースされています。

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カワムツを釣ってその場で実食!フライvsテンカラ【埼玉県・成木川】

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この記事は的な記述になっています。 を参考に修正して下さい。 (参照) 『 11PM』(イレブン・ピーエム)は、との交互制作で(40年)から(2年)まで約24年半に亘って放送されていた。 初の「深夜」でもある。 正式名称は『 WIDE SHOW 11PM』、略称は「 イレブン」。 「 イレピー」とも。 開始当初は午後のことを「」( Post Meridiem)と呼ぶ概念がまだ薄かった時代であり、新聞のテレビ欄に「 11P・M」と記載されていた。 番組概要 [ ] 「不毛の時間帯」とされていたの時間帯の開拓に乗り出し、の『』同様、の『』をヒントに企画された。 「の元祖」的な位置づけをされる11PMだが、初期は編集長だった山崎英祐が司会を務め、時事問題についての考察を述べるスタイルの、日本テレビ報道局制作の硬派番組だった。 しかし、視聴率が全く獲れなかったことから方針を転換、放送開始から半年で報道局が総撤退し、制作局(バラエティ部門)に当番組の制作を移管するというを施した結果、視聴率も上昇し、深夜の時間が定着する。 毎週月曜・水曜・金曜は日本テレビが、火曜・木曜は読売テレビが制作し放送した。 日本テレビでは、、読売テレビは作家のが主に司会を担当し、お色気から硬派な社会問題まで幅広く取り上げた。 木曜放送分は系列各局を回りながら、その土地の名物や風俗を探訪する企画を、また金曜には週末情報の色合いを強め、やのコーナーを放送していた。 当初は月-木曜日はタイトル通り午後11時丁度のスタートで、金曜日のみ『』や『』の放送があったため、午後11時15分スタート。 最終版ニュース『』をインサートした。 いちばん遅いのが末期の頃で、午後11時55分スタートとなり、タイトルにもふさわしくなくなってきた。 プロ野球中継(巨人戦)の時間延長やゴールデンタイムの特別番組の影響で午前0時台にスタートしてしまうことも少なくなく、最も遅く始まった回は、放送の火曜イレブンで、日本テレビが中継したの放送が1時間延長されたため、午前0時55分からスタートした。 基本的に本番組はだったが、状況によっての場合もあったとされ、末期の金曜レギュラーのが『』の短期連載で記したところでは、本番数時間前の夕方に疑似生放送(いわゆる)で収録することが多かったとのことである。 当時、高校生であり、法律により本来出演できるはずがないが金曜日に出ていたのはそれが理由である。 放送時間の変遷 [ ] 放送期間 放送時間() 月曜 - 木曜 金曜 1965年11月 - 1966年9月 23:00 - 翌0:00(60分) 23:15 - 翌0:00(45分) 1966年10月 - 1969年3月 23:15 - 翌0:15(60分) 1969年4月 - 1972年3月 23:10 - 翌0:20(70分) 1972年4月 - 1974年3月 23:15 - 翌0:23(68分) 1974年4月 - 1980年3月 23:15 - 翌0:21(66分) 1980年4月 - 1985年3月29日 23:20 - 翌0:25(65分) 1985年4月1日 - 1988年4月1日 23:30 - 翌0:35(65分) 23:45 - 翌0:50(65分) 1988年4月4日 - 1990年3月30日 23:55 - 翌0:55(60分) テーマ音楽について [ ] シルエットのラインダンサーが踊るをバックにしたによるオープニングテーマ、エンディングテーマは共にの即興作曲によるもの。 正式なタイトルは「11PMのテーマ」。 録音には2バージョンあり、オリジナルはクラシック出身の増田順平・睦美夫妻によるもので「パー! サバダバ」ではなく、「 イー! サバダバ」と歌っている。 「パー! サバダバ」のバージョンは番組開始1年後に再録されたもので、男声のパートは岡崎広志(岡田愛詩)、女声のパートはによる。 日本テレビ制作の東京イレブンでは「パー! サバダバ」のバージョンが、読売テレビ制作の大阪イレブンでは「イー! サバダバ」のバージョンが使われた。 1999年に放送された「」では、「イー! サバダバ」のバージョンが採用されている。 1980年9月25日、3人の女性グループ「あらん・どろん」が「ウィ! シャバダバ」のタイトルでカバー( 規格品番:L-371W)したことから、後にこちらが一般的なタイトルとして認知されることもある。 あらん・どろんは金曜の巨泉司会時代に顔出しをしてテーマ音楽を担当していた時期がある。 通常のテーマ曲の後、別の歌詞での歌が入る。 2000年には「パー! サバダバ」バージョンによるオープニング、エンディングテーマ(各21秒)に加え、新たな編集によるロングバージョン(1分9秒)を加えたが発売された( 規格品番:VPCD-82136)。 「イー! サバダバ」のスキャットが含まれたオープニングテーマは1966年にから発売された「ミュージック・フォー・11P. 」にて音盤化(演奏は猪俣猛オールスターズ。 歌手名は表記なし)。 2001年に発売されたCD「60'sTVヒッツ・コレクション」(、:TECD-25463)に収録されている。 2009年、の司会者を特集する番組でOPが放送され、が「まさかでこの曲が流れるとは思わなかった」と感想を述べた。 番組内の挿入歌としては、の「Hurry On Down」が、CM前に映されるカバーガールのバックで数秒流された。 テーマバックアニメーション [ ]• オープニングでは時計が6時ちょうどから11時ちょうどを差し、時計の真ん中の丸が地球になり、地球から電波が発信し、地球が塗りつぶしの丸(切れ目がある)になり左右に動き、ラインダンサーが踊る姿、女性の裸体が描かれ、11PMの文字をかたどった星座が出て最後には"WIDE SHOW 11PM"となって登場する。 テーマ音楽、テーマバックアニメーション共に第1回から番組終了まで使われた。 だが番組初期のアニメーションではラインダンサーの数は3人ではなく15人以上であり、また乳首を露出して横たわる女性の裸体は登場していない。 またこの時期のテーマ音楽のラストは「ドゥワー」は無かった。 エンディングでは地球が現れ、地球から電波が発信し、その後逆になり、地球が爆発する。 次に女性の裸体が描かれラインダンサーが踊る姿の後11PMの文字をかたどった星座が出て"WIDE SHOW 11PM"となり、最後に"The End"の文字がズームアウトしていく。 その他特記事項 [ ]• 企画段階では月曜から金曜まで全て日本テレビが制作する予定だったが、当時の日テレ内部では社員の労働超過が問題になっており、が猛反発。 会社側が「日テレ制作は月・水・金曜の週3日とし、火曜と木曜は読売テレビに制作を委託する」という妥協案を出し、これを組合側が受け入れて番組が制作された。 尚、後の番組好評を受けて、1967年夏より土曜22時台にて読売テレビ制作による土曜版の放送が開始(司会は)されたが、1968年5月までの短期間で打ち切られている。 それが発展解消した現在の『』では、木曜日 に限りYTVが制作を担当している。 当初は評論家のがキャスターの候補に上がっていたが、の編集長だったが初代キャスターに起用された。 当初は時事ネタ主体のワイドショーで、途中に全曜日で放送されるミニコーナーを挿入するというスタイルだったが全くが獲れなかった。 その後、テコ入れが行われ各曜日が独立した形式に変化するが、概ね東京はマガジン形式を採っていたのに対して、大阪はトークショーとドキュメンタリー主体だった。 また、大阪担当の木曜は時折ネット局各社との共同制作となり、藤本等司会者が日本各地に出張して放送された。 テコ入れ策として横田岳夫ディレクターから「どうしたらいい? 深夜だから大丈夫だろう」と提案。 横田も同調し番組の変革を思案したが、司会役を巡って調整が難航(をはじめ、ら4人ぐらいのタレントに司会を打診したがいずれも断られてしまった )、ついに横田から「いっそのこと巨泉、自分で喋っちゃったら? 」と頼まれたため、「巨泉のなんでもコーナー」という名前で巨泉自らコーナー司会を務めることになった。 のちに巨泉は金曜の司会を任されることになったが、これはテコ入れを機に山崎に代わる司会として打診したに「(月・水・金の)週3日はしんどいから2日にしてくれ」と要望されたことがきっかけで、横田の推薦で既に番組視聴者に顔と名前が知られていた巨泉に白羽の矢が立ったものである。 これを機に巨泉はこれまでの放送作家から司会者に転身することとなった。 さらにこの後、巨泉は月・金曜と週2回司会を務めることになったが、月曜も担当することになったのは1968年1月に小島が突然急死して後釜の手配がつかなかったためで、当初は月・水についてはピンチヒッターという扱いで日本テレビ制作の3日分すべての司会を巨泉が担当した。 そして2月中旬から水曜は当時大阪イレブンで人気を得ていた元芸妓のの起用例に倣い、銀座の現役クラブママであったを起用(但し起用当初より司会者経験ゼロの堤の進行ぶりを不安視する向きがあり、堤は当初契約通り半年で降板。 その後同8月下旬よりのインフォマーシャルを担当していたが水曜司会を担当することとなった)、月曜については局側の意向が強く働いたこともあり結局そのまま巨泉が正式な後任となった。 巨泉と朝丘のオープニングの掛け合いである「野球は、司会は巨泉の大橋巨泉と」「朝がまるで弱い朝丘雪路です」というやり取りは当時盛んにものまねの対象にされた。 1999年の復活特番の際は、この年のプロ野球日本一がだったため「野球はダイエー、司会は巨泉の大橋巨泉と」「朝まるで弱くなくなっちゃった朝丘雪路」と自己紹介していた。 後にの『』にレギュラー出演するは1966年、大阪イレブンのショーコーナーに15歳でレギュラー出演し一躍有名になった。 基本的にはローカルセールス枠だったが、も挿入されていた(後述)。 新聞などの番組欄にはその放送時期の大半の時期にサブタイトルがついていた。 その直前の時間帯の『きょうの出来事』は企画ニュース枠が常設されていなかったことなどから、当時サブタイトルがなかった。 内容は性的なものを連想させる惹句が多かった。 お色気番組の元祖とも呼ばれるが、時には性的なものとほど遠い内容のこともあり、大橋巨泉が担当した金曜イレブンとが担当した水曜イレブンはいずれもお色気が一切無かった。 1979年には水曜イレブン枠で、とをメインとした特集番組『赤塚不二夫のギャグ・テレビ』が放送された。 最高視聴率は1973年12月に放送された「東西ストリップ合戦」で48パーセント超だった。 当時から「ワースト番組」「俗悪番組」「エロブンPM」などと呼ばれ、や世間から批判や抗議は多かった。 政治家からの批判もあり、1975年には(当時)のから「ポルノ番組だ」と非難された。 一方やなどのからは評判が良く、作家のは1972年の雑誌の中で「最良のテレビ番組は『11PM』だ。 そこには知恵があり、熱気があり、一生懸命テーマを出そうとする気概がある。 これが面白くなくてなんであろうか」と絶賛した。 のテレビデビューは当番組の大阪イレブンで、「落語家の成人式」という副題で「SEXの以外に知っている技は? 」という質問に「逆さ十文字落としでぇーす!!!! 」と答えてウケたが、司会の藤本義一から「さんまかいわしか知らんけどな、テレビで言っていいことと悪いことがある。 それぐらい覚えて出て来い! 」と本番中に叱責された事を後年語っている。 に、人気フォークバンドのが当番組の出演を最後に解散。 過去に、8周年・10周年・15周年・20周年に行われた。 司会はで『11回忌法要スペシャル』でも会場の司会進行をしている。 稀に月曜・金曜のが、月曜は公開生放送の『』、『』、金曜は『』が優先されたため編成都合上ゴールデン枠での生中継が出来ないことがあったこと、また遠征については平日のデーゲームで開催されたことから、その場合『11PMナイター』と称して録画ダイジェスト中継が行われた。 また、の開催日にも予選ラウンド2日間を録画中継したことがある。 これは後継番組の『』でも同様だった。 1972年から1975年までの録画中継も年4回の割合で行った。 全女の中継はの『』が有名だが、当時の看板レスラーだったがきっかけとなり彼女をメインエベンターとして独占的に放送していた。 また全日本女子プロレスの初進出も1973年5月30日放送分であった。 2012年1月、で、愛川欽也が司会を担当した水曜日のみ「愛川欽也セレクション」として1978年、1982年、1983年の放送分から6本が再放送された(権利関係により一部の音楽の使用部分をカット)。 で同番組が再放送されるのは初めてのことである。 番組の始めと終わりに、愛川欽也との二人が当時の思い出を語る数分のトークが追加された。 大ニュースが起きた際は、NNN報道特別番組に差し替えられることもあった(時間枠は同じ)。 例えばののときなど。 また、の「」 やの「・前首相逮捕」の時はそれぞれに関連した内容を放送したほか、の「吐血」の時は、急遽内容を変更した。 いずれの場合も「11PM」の題を残しながら「 NNN報道スペシャル」と言うタイトルが追加されていた。 には第一次による電力節減の一環として放送終了時間の繰り上げ措置が行われていた。 日本テレビではから午前0時25分終了としたためこの番組への影響は少なかったが、からその措置がとられた読売テレビでは在阪民放4局 の社長会の取り決めで午前0時終了となったため、読売テレビでは放送途中の午前0時で放送終了となり、また同局が制作していた火曜・木曜分は0時以降はネット局へのになった。 その後オイルショックの状態が緩和されたことにより在阪4局の取り決めが解消されたため、より読売テレビの放送終了時間が午前0時25分となり、同日から通常の放送に戻った。 最初のCMに入る前には必ず製作 制作 著作のロゴ表記をしていた。 最後の挨拶でも同様• [例]「製作著作 (当時の社章)日本テレビ」「制作著作 よみうりテレビ」• 最後の挨拶は必ず、「明日は(東京・日本テレビ、大阪・読売テレビのどちらか)からお送りします」の一言で締めくくられていた。 2014年2月から、の「ミッドナイトアワー」枠で、土曜イレブン 『11PM』の土曜版 や末期の日本テレビ制作の『11PM』が月1本のペースで再放送されていた。 現在の放送基準により、ヌードになるモデルの顔や裸にはボカシが施されたり、一部内容をカットした配慮を加えた放送内容となっていた。 代表的な企画 [ ] 巨泉・考えるシリーズ 巨泉時代の月曜イレブンはお色気企画が多かったが、硬派な社会問題も特集した。 1971年に「戦後日本の大空白」というタイトルでやを放送。 1972年5月15日、前の「沖縄で君は何を見たか」(1972年3月13日放送)、沖縄返還当日の「棄てられた沖縄の証言 〜返還後の沖縄の防衛を考える」(1972年5月15日放送)、1985年に起きた11歳の少年投身自殺事件(「マー先のばか」と書かれた遺書)や、政治・事件・事故など数々の社会問題を取り上げ、1972年5月9日に第9回・放送批評家賞を受賞した。 プロデューサーのは視聴率は取れるときに取ればいいという考えで、取れるものでベースを作った上で、あとからテーマ性のあるものを打ち出して制作したと語っているが、後に雑誌『』での対談でから「何で低視聴率になってしまう問題や沖縄問題をやるのか」と聞かれたという。 日本テレビが毎年8月に開催する大型『』はこのシリーズの「世界の福祉特集」が元となっており、同番組スタッフが日本テレビ開局25周年記念番組の社内コンペで同特集を企画として出して採用されたとしている。 なお、で毎年開催されている『』を参考にしたという指摘もあるが、24時間テレビの発案者でもある都築はこれを否定している。 のミニミニアニメーション 1966年から1982年まで、月曜イレブンのコーナーとして800本近いショートが放送されていた。 裸の報告書シリーズ の「オリーブの首飾り」のテーマ曲で始まる月曜イレブンのお色気企画。 主にいそのえいたろう(風俗ライター)やがリポーターを務め、(現・)などの性風俗産業の取材を行い、裏文化の仕掛け人の紹介をした。 ・特集 1970年代中盤以降、月曜イレブンにて年に数回、UFOや超能力に関する特集が組まれた。 TIME GANG(タイム・ギャング)(読売テレビ制作) 1980年代半ばの火曜イレブンでは、構成に東京同様のマガジン形式を採り入れ、特に「TIME GANG」のサブタイトルを付けて放送した。 司会進行は(当時・読売テレビアナウンサー)とが務め、藤本義一はまとめ役(コメンテーターに準じたもの)に回った。 ただし、バーテンダー役の野村頻紹との掛け合い生CMは引き続き放送した。 後述する「秘湯の旅」はこの「TIME GANG」の一コーナーである。 裸のヨガ(読売テレビ制作) 火曜イレブンの企画。 文字どおり、海岸で女性モデルが(前が映る時は)でのポーズを披露していた。 の旅(読売テレビ制作) 火曜イレブンの企画。 「うさぎちゃん」と呼ばれた女性リポーターが全裸に近い状態で、数々のを紹介した。 「」という言葉もこのコーナーから広まった。 イレブンルーレット 1986年4月から9月まで、所ジョージが担当した水曜イレブンで放送。 番組のセット自体が巨大なルーレットとなっており、電話による視聴者参加形式でルーレットゲームを行った。 趣味企画 1966年に大橋巨泉が金曜イレブンのホストになり1985年に降板するまで続いた。 ゴルフ、ボウリングなどあらゆる娯楽を紹介していた。 イレブンフィッシング 金曜イレブン冒頭の趣味企画。 釣り名人・服部善郎(プロデューサー)が主に海釣りをレポートしていた。 聞き手は横田岳夫ディレクターが担当した。 また釣りが趣味の巨泉も率先してロケに参加していた。 麻雀実践教室 金曜イレブンの趣味企画の一環として放送され、麻雀番組の走りとなっていた。 イレブンクッキング とのタイアップによる料理コーナー。 必ずハウス食品の調味料を使用して料理を行っていた。 CAR GUIDANCE 1966年に大橋巨泉が金曜イレブンのホストになり1985年に降板するまで続いた長寿コーナー。 当初は巨泉が担当していたが、後に、番組内で「悪役」と呼ばれたレギュラー出演者のや女性リポーターが新型車をメーカーを問わず紹介し、週によっては輸入車も取り上げることもあった。 イレブンダービー 競馬に見立てた双六ゲーム。 一般視聴者が電話で参加し1対1で競われた。 ただし、マイナスも隠れており、選んでしまった場合は数字分だけ戻らなくてはならない。 また、「落馬」というものもあり、この場合はその時点で失格となる。 先にゴールした視聴者が勝ちとなった。 巨泉時代の金曜イレブンで放送された。 『』に巨泉がゲストで出演したとき、巨泉の司会で、番組出場者が参加する形にしてこの企画の復活版が行われたことがある。 マス目を示すボードには「イレ ヴンダービー」と記載してあった。 このコーナーの箇所は、に放送された『』というテレビドラマでも再現されており、役として城山ゆり子()とその友人の夏子()、美枝()が担当している。 臨時ニュースの挿入 1985年8月12日に発生したの挿入ニュースが愛川欽也担当の水曜の生放送で伝えられた。 ワイドショーの特性を生かしたニュース性も強かった。 海外ロケ 当初は小島や巨泉があまり知られていない海外(主にヨーロッパ)を旅して紹介するものだったが、かたせや秋川などの女性アシスタントのグラビアシーンも取り入れられた。 また、ロケ地の夕陽の映像を必ず撮影していき、そのシーンを紹介したコーナーもあった。 異色対談 違う世界の大物著名人が、予備知識なしで対談するという企画。 と、と、となど様々な対談があった。 紅白ストリップ合戦 全国から人気ストリップ嬢が集合し紅白形式に分かれ、"艶技"を披露する年末恒例企画。 1974年12月30日には番組史上最高視聴率をマークした。 夜の(読売テレビ制作) 年末企画。 有線放送のデータをもとに審査され、大賞等が決定される。 後に独立して『』と改称され、現在は『』として放送されている。 各界名士のど自慢 年内最後の放送の年末企画。 政治家、社長、文化人などが歌を披露した。 終了後も独立した特番として1993年頃まで続いた。 上方お笑い芸人紅白歌合戦(読売テレビ制作) 大阪発の年内最後の放送の関西芸人たちによる年末企画。 司会は(当時、読売テレビアナウンサー)で藤本は審査員だった。 生コマーシャル 番組中盤でコマーシャルに入る前にの生コマーシャルを司会者が務めていた。 なお、読売テレビ制作分では必ずバーテンダー役の野村頻紹が登場し、藤本義一に「今日のはこれです」とサントリーのを持ってきていた。 藤本はこれを受けて一言コメント(蘊蓄が多かった)を発し、商品の紹介に繋げた。 ちなみに、後期にとが司会を担当した日本テレビ制作の金曜イレブンでは、当時引退して間も無い頃のが大阪の野村同様のバーテンダー役(パロディー)をやっていたことがある。 アイキャッチ カバーガールがポーズを取っていた。 なお一部のアイキャッチで、カバーガールがの車に寄り添いポーズを決めていた(セットには車種名を明記していた)。 また、晩年は協賛スポンサーがトヨタからにかわり、発売されたばかりの「エスカルゴ」や「セフィーロ」などが登場した。 出演者 [ ] 月・水・金曜日(日本テレビ製作) [ ] 司会者・アシスタント 期間 司会者 アシスタント 月曜日 水曜日 1 金曜日 月曜日 水曜日 金曜日 1965年11月8日 - 1966年4月 山崎英祐 高原良子 1966年4月 - 1967年12月 (不在) 2 1967年12月 - 1968年2月 4 1968年2月 - 1968年3月 大橋巨泉 3 堤妙子 3 1968年4月 - 1968年6月 沢知美 (不在) 1968年7月 - 1968年8月 朝丘雪路 5 1968年9月 - 1969年3月 ジューン・ アダムス 1969年4月 - 1971年9月 1971年10月 - 1973年12月 ジュディ・ アントン 1974年1月 - 1977年12月 6 1978年1月 - 1981年12月 1982年1月 - 1982年5月 1982年6月 - 1983年5月 1983年6月 - 1985年3月 1985年4月 - 1985年9月 1985年10月 - 1986年3月 1986年4月 - 1986年9月 3 (不在) 1986年10月 - 1987年6月 斉藤晴彦 由利徹 1987年7月 - 1988年3月 斉藤晴彦 1988年4月 - 1988年12月 三枝成彰 吉田照美 高田純次 関根勤 1989年1月 - 1989年3月 井森美幸 1989年4月 - 1990年3月30日 高田純次 吉田照美 井森美幸• 一時期、が水曜日のサブ司会を務めたが、担当期間は不明。 巨泉の金曜司会就任当初、パートナーは週替りのゲスト制を採っていたが、5週目のゲストパートナーとして朝丘がゲスト出演した際の両者の掛け合いが好評であったことから1966年5月より正式にレギュラーに起用された。 小島の急死(1968年1月17日に急逝)に伴うもので、小島急逝後の1ヶ月間は水曜も含めて巨泉がピンチヒッターという形で務めていた(同2月中旬以降、水曜は堤と交代、月曜は正式に後任となった)。 朝丘の結婚・妊娠休業に伴う代役として出演。 1974年1月〜3月までは妊娠休業のためが代理パートナーとして出演。 カバーガール担当期間を含むが、アシスタント着任時期は不明。 カバーガール• (1979年 - 1980年2月) - 水曜日• 青山京子 - 木曜日• - 金曜日• (本名の玉井美香名義での出演)• - 金曜日• (1986年) - 月曜日• (1989年 - 1990年) - 金曜日• - 水曜日• - 金曜日• 火・木曜日(読売テレビ制作) [ ] 司会者・アシスタント 期間 司会者 アシスタント メイン サブ 火曜日 木曜日 火曜日 木曜日 火曜日 木曜日 1965年11月9日 - 1969年8月 (不在) 1969年9月 - 1970年8月 1970年9月 - 1971年8月 笹田泉 1971年9月 - 1976年10月 1976年11月 - 1977年10月 1977年11月 - 1978年5月 多田千香 1978年6月 - 1978年12月 1979年1月 - 1979年7月 1979年8月 - 1980年5月 1980年6月 - 1981年3月 1981年4月 - 1985年3月 1985年4月 - 1988年4月 1988年4月 - 1988年9月 (不在) (不在) 1988年10月 - 1989年3月 1989年4月 - 1990年3月30日 浦島三和子• 藤本は全曜日中唯一の 皆勤出演。 カバーガール• 土曜日(読売テレビ制作) [ ]• 1967年8月 - 1968年4月:• アシスタント:久保村道子 土曜日(名古屋テレビ制作) [ ]• 1972年7月 - 1972年9月:• 1972年10月 - 1973年3月: 土曜日(日本テレビ制作) [ ]• 1973年4月 - 1974年3月:• そのため1990年3月の終了時にフルネットで放送していた局はNNNマストバイ14局とNNN非マストバイ2局、他系列とのクロスネット局2局の18局にまで減少していた。 ここでは各地区での放送状況を取り上げた。 『プロ野球ニュース』の系列外ネットは1994年3月で終了。 放送対象地域 放送局 放送期間 放送状況・備考 月・水・金曜制作局 火・木曜制作局 1966年5月2日 - 1990年3月 フルネット。 1967年11月1日 - 1977年9月30日 NNN加盟局で最初に打ち切った。 [ ] 東日本地区では最初にネットを打ち切った。 1969年12月 - 1990年3月 フルネット。 1982年 頃 [ ]打ち切り 1966年6月1日 - 1978年3月31日 1966年10月3日 - 1970年9月30日 日本テレビ系新局開局に伴う放送局移行による打ち切り。 1970年10月 - 1990年3月 フルネット。 1971年10月1日 - 1990年3月 フルネット。 フルネット。 新潟総合テレビ (現:) 1973年4月 - 1981年3月 日本テレビ系新局開局に伴う放送局移行による打ち切り。 1981年4月 - 1990年3月 フルネット。 1975年4月 - 1980年9月 月曜・金曜のみ。 1980年10月 - 1990年3月 フルネット。 1979年7月 - 1990年3月 フルネット。 1988年4月8日放送分を最後に打ち切り ネット開始当初から1974年7月1日まではフルネット。 その後何度もネットする曜日が変動し、最終的には月曜・水曜・金曜のみとなった。 1976年10月6日 - 1978年3月29日(水曜) 1975年4月4日 - 1977年3月25日(金曜) 水曜・金曜のみ。 1990年3月のみ サービス放送時のみ。 『11回忌法要スペシャル』はネット。 フルネット。 1989年4月からはとのクロスネット局。 1973年3月打ち切り 1972年7月から打ち切りまでは土曜制作局 変則クロスネット解消に伴う打ち切り。 1973年4月 - 1990年3月 フルネット。 ・ フルネット。 当初は鳥取県のみで放送、1972年9月の島根県への相互乗り入れで島根県でも放送開始。 ・ フルネット。 当初の免許エリアは香川県のみで、1983年4月の岡山県への相互乗り入れで岡山県でも放送開始。 1966年4月 - 1990年3月 フルネット。 年度により、ゴールデンタイムの差し替えが困難な9月下旬から10月頃は、ローカル版の『11PMナイター』として主催ゲームの録画中継に差し替える事があった。 1970年4月 - 1990年3月 金曜版は1985年9月打ち切り。 『11回忌法要スペシャル』はがネット。 1975年4月 - 1983年3月 1977年4月 - 1979年9月の間はフルネット。 当初は月 - 木曜のみ放送。 金曜深夜に放送されていた『』を5話で打ち切りにした上でフルネットを開始。 『11回忌法要スペシャル』は沖縄県では未ネット。 主なスタッフOB [ ]• - 番組企画立案者。 当時、アメリカで放送されていたを参考に立ち上げた。 後藤達彦 - 初代プロデューサー。 報道局からの参加で井原とともに番組立ち上げに尽力。 テコ入れ後もただ一人報道局から番組に残り、井原が去った後は『11PM』を支える存在に。 スポーツ局次長などを経て、制作局長を最後に退職。 横田岳夫 - 裏方だった大橋巨泉を司会に抜擢。 金曜イレブンで釣り・ゴルフ・麻雀など遊びを番組に取り入れた。 巨泉からは「よこちん」と呼ばれた。 石川一彦 - 2代目プロデューサー。 当番組での自由な発想を礎に『』を開始。 のちに、常務取締役になる。 高橋進 - 愛川欽也司会時の水曜イレブンのディレクター・プロデューサー。 音楽・映画などの最新の流行情報を番組に取り入れた。 番組後期は制作 を担当。 その後は制作局長、読売テレビ専務取締役を歴任。 - 制作会社社長。 『』『』などヒット作品多数。 - 制作会社会長。 『』『』などを演出。 - 放送作家として参加。 - 研究家。 最初にUFOを取り上げたのは11PMディレクター時代。 - 『』の生みの親。 社会派名企画「巨泉・考えるシリーズ」を担当。 - 『11PM』担当時は藤本義一にその演出スタイルを絶賛された。 当枠の後番組でプロデューサーを担当した『』(大阪版)や、『』などでTVの新機軸を開いた。 - 中後期の東京イレブンのエースディレクターで、当枠の後番組『EXテレビ』(東京版)のプロデューサーも担当した。 今も『』などをてがける現役ディレクター。 - ディレクターとして参加。 その後、東京制作局へ異動。 『』『』などのアニメ番組のプロデューサーとして活動中。 - 放送作家・音楽プロデューサー。 立教大学の学生の時に、の紹介でAD~ディレクターとして番組に参加。 パロディーなど [ ]• ひょうきんPM - 『』• オヤブンPM - 『』• 『』 - の情報番組 11PM 11回忌法要スペシャル [ ] (平成11年)、この日の日付に11が並んだこと、また終了からおよそ満10年(数えで11年)経ったことから『11PM 11回忌法要スペシャル』が、同日午後11時37分から 一夜限りでNNN30局 で放送され、大橋巨泉ら歴代の司会者をはじめ、番組にゆかりのある有名芸能人が一堂に会した。 番組内容は、11PM11回忌法要と銘打たれたパーティの中継で、ロイヤルホールのメイン会場は徳光和夫の司会進行で行われた。 巨泉や愛川、朝丘らがスタジオ形式でフリートークを行う会場入口前セットの進行はで、当時日本テレビのアナウンサーだった福澤は巨泉から「給料制か。 フリーになって、ウチの事務所()に来い」とツッコまれていた。 番組のメインスポンサーにが付き、番組名物だったも再現され、巨泉と松岡きっこがサントリーの商品を紹介、メイン会場のパーティでもサントリーのアルコール類で乾杯が行われた(CMのコピーは「サントリーのワインで21世紀を祝おう」)。 過去の11PMの映像を見ながら当時を振り返るトークを中心とし、パーティ会場ではによるストリップショーが行われたほか、会場入口前セットではが11PMの歴史を振り返るフリップ漫才なども行われた。 パーティの終盤には藤本義一を始めとする大阪イレブンの面々も駆けつけ、番組の最後に巨泉、愛川、藤本の3人がトークし、現在のテレビ番組に対して苦言を呈していた。 この11回忌法要スペシャルは、本放送当時の現役スタッフだった率いるが制作を担当し、菅原も総合演出として参加した。 なお、読売テレビは制作協力扱いで製作著作は日本テレビだった。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 吉田照美が出演していた当時の「金曜イレブン」は、10代後半から20代の女性モデルをレギュラーに起用(「SOS歌劇団」という番組内グループ)していたこともあり、彼女たちのスケジュール(10代のメンバーは一部に法律などによる出演時間の制約がかかる者もいた)に配慮しての「擬似生放送収録」が多かったようである。 シングル盤「ハリー・オン・ダウン」には、「読売テレビ「11PM」番組挿入歌」の表記や、11時の時計が描かれたものなどがある。 一時期『プラチナイト』の枠外だった時期あり• 一時期、中京テレビの制作枠があった時期は日本テレビ制作枠が週2日となっていた。 2019年4月からは金曜日に枠が設置されることに伴い、水曜日が中京テレビ制作になる予定。 これにより、日本テレビ制作が週3日の体制は維持となる。 当時、沖縄では未放送。 1974年当時は未開局。 一時期巨泉が「本中華」のモデルとして出演したことがある• とは同姓同名の別人。 本名同じ。 1960年3月23日東京都生まれ。 を1980年3月に卒業。 1980年3月に「今週のギャル」コーナーに出演したが、出演した際の反響が大きかったことから1980年5月からカバーガールとなった。 後述の、11回忌法要スペシャルはを除く30局ネット(、を含む)で放送された。 94年4月スタートの『』への内包となり、加盟局以外でのネットが事実上不可能になったため。 これに伴い、、、は『』よりネット再開している。 、(のみ)だったではネットされなかったが、とにより1971年10月1日からネット開始。 放送開始した1965年12月時点ではネットしていない。 出典:大阪版、1969年4月30日、9ページ、テレビ欄。 一旦打ち切りにし、後に再開。 当時の上層部との折り合いが付かなかったのが退職の理由。 チーフプロデューサーと同義。 この日の『』1部は休止。 、を含む。 ちなみに現在福澤は、後にオーケープロダクションの親会社となった傘下のに所属している。 出典 [ ]• 2020年1月3日. 2020年2月17日閲覧。 大橋巨泉自伝』()p. 167 - 170• 大橋巨泉著書「巨泉 人生の選択」• 大橋巨泉・著『ゲバゲバ70年! 大橋巨泉自伝』(講談社)p. 208 - 213• 高平哲郎『今夜は最高な日々』P97・98 新潮社 2010年• 『11PM』読売テレビ版最終回での回顧録より• WIDE SHOW 11PM『深夜の浮世史』P82 日本テレビ出版部 1983年• 読売テレビ50年社史編纂委員会 編纂 『読売テレビ50年社史』、2009年、106頁。 2014年11月14日閲覧。 週刊文春(2019年11月24日作成). 2019年12月7日閲覧。 『福島民報』1980年5月11日付朝刊9面 「出番 青山京子」。 出典:『』(マイクロフィルム版) 1965年(昭和40年)10月 - 1966年(昭和41年)5月 テレビ欄• 1977年9月付と10月付の東奥日報テレビ欄から• 『』1966年10月3日、1970年9月30日付朝刊テレビ欄。 『』1971年10月1日付朝刊テレビ欄。 テレビ静岡社史編纂委員会/編 『テレビ静岡二十年の歩み』 テレビ静岡、1988年、222-223頁。 『北國新聞』1988年4月8日付朝刊、テレビ欄。 『北國新聞』1976年10月6日 - 1978年3月29日付朝刊、テレビ欄。 『北國新聞』1975年4月4日 - 1977年3月25日付朝刊、テレビ欄。 出典:、1965年12月29日、7ページ、テレビ欄。 出典:徳島版、1980年7月29日、テレビ欄。 屋代卓也; 山浦正彦 2008年3月17日. musicman. エフ・ビー・コミュニケーションズ株式会社. 2020年6月2日閲覧。 関連項目 [ ]• - のビルの影が、11時11分に11分間かけて通過すると言われ、暗くなることから『11PM』と呼ばれたという説。 系 月曜 - 金曜深夜枠 前番組 番組名 次番組 ギャンブル狂騒曲 - ムーン・ナイト・セレナーデ 月光夜曲 - 夢見るジョンジョロリン - いい加減にしろよ - Do! - - 寿司屋 生鮮魚介類小片付握飯量販店 - ほんとうにいい気持ち - ご心配なく - 正男という名で小学生 - 君と二人で - まったくやる気がございません - 銀座アンノン娘 - - 私の名前で出ています - - - 恋のバックファイヤー - LAST NUMBER - 白いTシャツ - ブルーライトチャイナタウン - 故郷 - 世田谷のアラブ人 - 春一番の前 - 真っ暗な夜に - ラクダの商人 - 僕の犬 - 東京BIG CITY - わかんない2 - - トンカチ - - - アルバム ジョージ・ファースト 現金に手を出せ!! - ジョージのセロリ・パセリ - 成りさがり 大学ぐらいは出たかった - LIVE 追跡 - REVENGE OF HONG KONG 〜ホング・コングの逆襲 - みんな不良少年だった - FUEL ALBUM - PILE DRIVER - FROM TOKOROZAWA WITH LOVE 〜所沢より愛をこめて - BLUE LIGHT CHINATOWN - HEAVY LIGHT - NIGHT OF COYOTE 〜コヨーテの夜 - ホテル・チャイナタウン - 僕の犬 - ブタとダイヤモンド - - - - 本物 - 安全第二 - コケコッコゥ!! 〜七色の声色〜 - ハーレーの唄 関連項目.

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