千代の 富士 身長。 富士の里昇

身長

千代の 富士 身長

最近、相撲界はまたきな臭くなっている。 本場所どころではない不穏な空気だが、私はそれとはまったく別個に「大相撲の変質」に気をもんでいる。 昔の相撲と今の相撲は「別物」になっていると言ったら驚くかもしれないが、今回いろいろ調べてみて、その感を強くした。 今、大相撲の中継を見ていて感じるのは「誰が誰やらわからない」ということだ。 みんな、同じように大きくて、異様に太っている。 数字を見るとそれがはっきりわかる。 今場所、2018年1月場所と、50年前の1968年1月場所、100年前の1918年1月場所の幕内全力士の体格を調べた。 BMIは肥満度。 2cm 体重164. 0kg BMI 48. 9cm 体重130. 6kg BMI 39. 6cm 体重102. 9kg BMI 33. 8 <身長上位3人> 對馬洋190cm 柏戸189cm 太刀山188cm <身長下位3人> 小常陸159cm 土州山164cm 竜ヶ崎、弥高山167cm <体重上位3人> 太刀山150kg 大錦140kg 西ノ海139kg <体重下位3人> 石山81kg 逆鉾86kg 岩木山87kg.

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力士の体重は50年で30kg増えた。土俵を広くする、という選択肢は?

千代の 富士 身長

国技館へ向かう九重親方(2010年1月 54歳 ) 基礎情報 四股名 千代の富士 貢 本名 秋元 貢 愛称 ウルフ 、小さな大横綱 生年月日 1955-06-01 没年月日 2016-07-31 (61歳没) 出身 身長 183cm 体重 126kg BMI 37. 62 所属部屋 得意技 右四つ、寄り、上手投げ 成績 現在の番付 引退 最高位 第58代 生涯戦歴 1045勝437敗159休(125場所) 幕内戦歴 807勝253敗144休(81場所) 優勝 幕内最高優勝31回 幕下優勝1回 賞 1回 1回 5回 データ 初土俵 9月場所 入幕 9月場所 引退 5月場所 引退後 親方 備考 3個(2個、1個) 現在 目次• 来歴 [ ] 秋元少年の角界入り [ ] 北海道松前郡福島町で漁師を営む家にに誕生。 子供の頃から漁業を手伝って自然に足腰が鍛えられ、中学生では運動神経が抜群だった。 特に陸上競技では走り高跳び・三段跳びの地方大会で優勝し、「オリンピック選手もいける」と言われるほどだったが、相撲は大嫌いだった。 中学一年生の時にの手術を受けたが、秋元少年の腹の筋肉が厚いために手こずって、予定を大幅に上回る長時間の手術になってしまい、終了直前に麻酔が切れてしまった。 それでも必死に耐え続ける体格の良い秋元少年を見た病院長が見出し、の入門の世話をしたことがある若狭龍太郎に連絡した。 その連絡を受けた九重(千代の山)が直々に勧誘したが、自身は気があまり乗らず、両親も入門に大反対したため一旦は断わっていた。 それでも諦めない九重は秋元少年に対して「とりあえず東京に行こう。 入門するなら飛行機 に乗っけてあげるよ」 「中学の間だけでも(相撲を)やってみて、後のことを考えたらどうだ? 」などと持ちかけると飛行機にどうしても乗りたいがために、家族の反対を押し切って九重部屋に入門を決めた。 まだ現役であった北の富士も秋元と遭っているが、その時を後に北の富士は「小さかったよ。 だけど、物おじしないで平気な顔で部屋に来たのを覚えている。 『おれのこと知ってるか』と聞いたら、『知らない。 大鵬なら知ってるけど』。 それが初めての会話だった。 」と振り返っている。 五文字の関取誕生 [ ] 本名のまま9月場所を踏み、翌11月場所序ノ口につき「大秋元」と改名、1月場所「千代の冨士」(1月場所より「千代の富士」 )と名付けられた。 四股名の由来は、九重の四股名である「千代の山」と同じ部屋の先輩横綱・から取られており、九重からはそれだけの大器と見られていた。 上京して相撲を始めたものの陸上への未練も捨てがたく、転入した福井中学校では台東区立中学連合の陸上競技大会の砲丸投げで2位に入賞する活躍を見せた。 相変わらず相撲に馴染めないまま日時だけが過ぎて行き、中学校を卒業後は帰郷する予定で、1971年3月場所の終了後は荷物を実家へ送り返してしまった。 土俵での成績は概ね良好のため、逸材を手放すことを恐れた九重は秋元少年を故郷の後援会会員に世話を頼んで定時制へ進学させた。 そこで学業と相撲の両立を図ったが失敗し、6か月で中途退学して相撲に専念した。 同年秋ごろに右足首骨折でやる気が薄れたが、当時東京で上野の松坂屋に勤めていた姉に励まされて何とか踏みとどまった。 小兵(幕内定着の頃まで体重は100以下)ながら気性の激しさを表す取り口 で順調に出世して、11月場所19歳5ヶ月で十両昇進、史上初の5文字四股名の関取となった。 異名の「ウルフ」については、ちゃんこ番として魚をさばいているところを見た九重が「みたいだな」と言ったことから名付けられた。 当初は狼と呼ばれていたものがいつしか変化したそうで、これを聞いた理事長は「動物の名前で呼ばれる力士は強くなる。 ワシは『』だった。 狼はの昔のあだ名だ」と言ったという。 肩脱臼との戦い [ ] 9月場所で昭和30年代生まれの力士としては第1号の新入幕を果たし、2日目には幕内初白星を元・から挙げる が、相撲の粗さ が元で5勝10敗と負け越し。 その後は故障もあってまで陥落し、昭和30年代生まれの力士としての幕内勝ち越し第1号も当時「北の湖二世」と呼ばれ将来を嘱望されたに先を越された。 人並み以上の奮起で帰り十両を果たすが、以前から課題だった先天的に両肩の関節のかみ合わせが浅いという骨の形状から来る肩(左肩)のが顕在化する。 その頃の取り口は類い稀な運動神経を活かして力任せの強引な投げ技で相手を振り回すのを得意としていたために左肩へますます負担がかかり、度重なる脱臼に悩まされた。 このため、2年間を十両で過ごすことになるが、元のはこの頃から「(千代の冨士は)ケガ(脱臼)さえなければ幕内上位にいる人だと思う。 ウルフと言われる鋭い目はいつの日か土俵の天下を取るものと見ている」と将来性を見抜いていた。 1977年10月29日に九重が死去したため、部屋は北の富士が継承した。 この頃から頭をつける体格に合った相撲が見られるようになり、その成果もあって脱臼も幾分か治まり、1月場所には再入幕を果たした。 同年5月場所13日目の対戦は、取組前の「両者とも足腰が良いからもつれるだろう」という実況・解説者の予想を覆して、頭を付けて懐に入ってから強烈な引き付けで貴ノ花の上体を起こし、貴ノ花が左からおっつけるところを一気に寄り切るという会心の相撲で勝利し、銀星と勝ち越しを同時に手にする大きな白星となった。 この場所、9勝6敗の成績を挙げて初の敢闘賞を受賞。 この活躍から同年7月場所では新小結の座につき、貴ノ花・の2大関を破ったが、5勝10敗と負け越し。 幕内に定着したと思われた3月場所の戦で右肩を脱臼して途中休場し、入院して脱臼との戦いをまたも強いられることとなる。 これは全治1年、手術すれば2年という重大なケガであり、「手術すれば半年は稽古ができない」 「もし2カ月で治したいなら筋力トレーニングを行い肩の周辺を筋肉で固めなさい。 」 と三重県四日市中央病院の藤井院長 に勧められる。 この肩を筋肉で固めるという対策に活路を見出し、こうして毎日500回の・に励んで脱臼を克服した。 当時東京都江戸川区に構えていた自宅の8畳の自室を4か月に一度、畳替えをしなければならないほどすさまじいトレーニングだったという。 三役昇進 [ ] 同年5月場所は周囲の予想通りに陥落したものの、取組中のケガだったことからを利用して肩の治療に専念するはずだった。 しかし、手続きの不手際で公傷と認められない ことが場所の直前になって発覚したため、このまま休場すれば幕下陥落の危機もあったことから3日目より強行出場、9勝を挙げて同年7月場所に幕内へ復帰した。 以後は着実に力をつけ、幕内上位に定着することとなる。 肩の脱臼を受けて、それまでの強引な投げから前廻しを取ってからの一気の寄りという形を完成させ 、3月場所から幕内上位に定着する。 横綱・大関陣を次々と倒して人気者となり、特に大関昇進後のに対しては6戦6勝負けなしと「増位山キラー」とされた。 同年9月場所にはで幕内初の二ケタ勝利となる10勝5敗の成績を挙げた(この場所以降引退まで、皆勤場所では全て二ケタ勝利)。 同年11月場所に新に昇進すると初日から8連勝した。 連勝は九日目輪島に敗れて 止まったが11勝4敗の成績を挙げ、を目前として1月場所を迎えた。 1981年1月場所は前場所をはるかに上回る快進撃を見せる。 を相手得意の左四つからの上手投げ、を外四つで寄り倒し、いずれも不利な体勢から2横綱を破るなど初日から14連勝を記録。 そして迎えた千秋楽()、1敗で追いかけたとの直接対決を迎えた。 本割では吊り出しで敗れて全勝優勝こそ逃すものの、吊り出された時に北の湖の足の状態が不完全であることに気付いて作戦を立てており、それが見事決まってでは北の湖を右からの上手出し投げで下し、14勝1敗で幕内初優勝を果たした。 場所後に千代の富士の大関昇進が決定したが、千秋楽の大相撲中継視聴率は52. 九重は千代の富士の優勝で一番思い出に残る取組にこの優勝決定戦を挙げており、塩沢実信のインタビューでは「やっぱり、初優勝の時ですね。 北の湖との本割で敗れて、そして優勝決定戦。 あの二番は忘れられません。 大関に昇進、横綱に昇進という時は、感激が大きすぎてピンと来ないもんなんです。 初優勝した時は、千代の富士の姿を見て涙が出ましたから」と語っていた。 ウルフフィーバー [ ] 新大関で迎えた3月場所は11勝4敗、5月場所は13勝2敗と連続して千秋楽まで優勝争いに残り、横綱昇進が懸かった7月場所には千秋楽で北の湖を破って14勝1敗の成績で2度目の優勝を果たして横綱を掴んだ。 この千秋楽の取組では千代の富士が立合い、得意の左前ミツを取って頭をつけた。 北の湖が左をのぞかせ、右からおっつけたが、千代の富士は土俵際、回り込んで右の前ミツも取ると、右上手出し投げで北の湖の体を泳がし、そのまま寄り切った。 非常に劇的な瞬間に、千秋楽審判委員として土俵下に控えていた当時の九重親方(北の富士)は勝負が決まった瞬間手で涙を拭った。 この日のNHK大相撲中継の視聴率は2017年3月場所終了時点では夏場所としては第3位となる36. は九重と同じ雲龍型を選択した。 横綱昇進の際「2代目・千代の山」の襲名を打診されたが「今の横綱2人分( 千代の山+北の 富士=『千代の富士』)の四股名の方が強そうだから」と述べ固辞。 千代の富士の大関・横綱昇進伝達式の際には、北の富士と、北の富士の配慮で先代九重親方のが同席していた。 横綱では「 横綱の名を汚さぬよう一生懸命頑張ります」と口上を述べた。 新横綱となった同年9月場所の2日目、ライバルと言われたとの取組で場所前から痛めていた足を負傷し、新横綱が途中休場という憂き目を見る(新横綱の休場は昭和以降では・に次いで3人目)。 新横綱誕生の期待が一転して失望に変わり、この休場で「不祥事」「短命か」などと批判された。 しかし、同年11月場所では12勝3敗の成績でとの優勝決定戦を制して横綱としての初優勝を飾ることで復活を見せた。 この場所も14日目に隆の里に敗れている。 隆の里はその後も千代の富士のと言えるような存在で千代の富士は長く苦しんだ。 対隆の里戦の通算成績は12勝16敗で、下位力士(関脇~大関時代の隆の里)相手に8連敗という不名誉な記録も作っている。 1981年には、同一年中に関脇・大関・横綱の3つの地位で優勝するという史上初の記録を達成した。 関脇から横綱へ一気に駆け上がるとともに新横綱での挫折、翌場所の復活優勝と、1981年は千代の富士にとって激動の1年であった。 こうした事情から、関脇・千代の富士(不詳)、大関・千代の富士(『』における永谷園「味ぶし」の宣伝に登場)と記された各種記録は少ない。 この時期の千代の富士は、細身で筋肉質な体型と精悍な顔立ち、そして豪快でスピーディな取り口から若い女性や子供まで知名度が高まり、一種のアイドル的な人気を得ていた。 一気に大関・横綱への昇進を決めた1981年は「 ウルフフィーバー」の年として記憶されている。 千代の富士の取組にかかるの数は他の力士に比べて圧倒的に多く、懸賞旗が土俵を数周してもまだ余る状態だった(大抵の場合3周以上していた)。 限界説との戦い [ ] には3連覇を達成し初のを記録する。 横綱昇進後の最初の3年間は強い時は強いが頼りない部分も見受けられ、1982年7月場所後の『』に「ウルフV3はしたけれど……ひどい、低調しらけ場所」という総評が出されるなど周囲の崩れに助けられたという意見もあった。 特には年明けから振るわず、3月場所は右股関節捻挫で中日から途中休場。 同年5月場所は2年ぶりの優勝を目指す北の湖敏満から一方的な寄りを受けて11勝4敗に終わった。 同年7月場所は左肩の脱臼で全休したほか、同年9月場所は入幕2場所目のの突き押しにあっけなく敗れ、横綱としての責任を問われることになった。 同年11月場所は久々に優勝したが、翌年は30歳を迎えるという年齢的な面から一時は限界説も流れた。 度重なる不幸〜国民栄誉賞受賞 [ ] しかし、千代の富士にとっての本格的な黄金時代は30代に入ってからで、のこけら落としとなった1月場所は全勝優勝を果たして幸先良いスタートを切る。 5月場所からの色が青から「黒」に変わり、この年には史上3人目となる年間80勝を達成、3年ぶり2度目の年間最多勝にも輝いた。 1月場所に天敵・隆の里が引退し、同年3月場所から7月場所までのは千代の富士のみとなる(7月場所後にが横綱昇進し一人横綱は3場所で解消)も、1986年5月場所から1987年1月場所までは5連覇を達成した(1986年も2年連続3度目の年間最多勝となるが、これが自身最後の同受賞)。 前半はわずかに崩れたことで千代の富士時代は終わりに近づいたとの声が高まり「次の時代を担う力士は誰か」というアンケートまで実施された。 しかしその声を打ち消すかのように、1988年5月場所7日目から11月場所14日目まで を記録する など、他を寄せ付けない強さで昭和末期から平成初期にかけての「千代の富士時代」を築き上げた。 53連勝で止まった1988年11月場所千秋楽(対戦)が奇しくも昭和最後の取組となるが、53連勝は昭和以降の記録としては1月場所現在、(69連勝)、(63連勝)に次いで歴代3位。 1月場所も優勝候補筆頭だったが、雑な相撲が目立ち、8日目にに敗れて以降は優勝争いから後退、11勝4敗に終わる。 4年4ヶ月ぶりに西正横綱として登場した同年3月場所は初日から他を寄せ付けない強さで、14日目に大乃国を破って優勝を決めたが、この一番で左肩を再び脱臼したことで千秋楽が不戦敗となり、表彰式では左手首にテープを巻いて腹に固定して登場、右手のみで賜杯を手にした。 さらに、1989年2月に誕生したばかりの三女・愛がで生後4か月足らずで6月に死去してしまう。 自身や家族が受けた精神的ショックは計り知れず、師匠・九重でさえも「もう相撲は取れないのではないか」と思われるほどだったという。 しかしその直後の7月場所は首に数珠を掛けて場所入りし、12勝3敗の成績ながらも千秋楽の優勝決定戦にて同部屋の弟弟子・横綱を下して奇跡の優勝を果たした。 この場所の千秋楽の優勝決定戦では2人は仕切りでほとんど目を合わせなかった。 立ち上がって北勝海が右ノド輪で攻めたが、千代の富士は左おっつけから差し手争いに持ち込み左四つがっぷりの体勢になった。 千代の富士は北勝海が再三右上手を切りにくるのも構わず、出し投げ気味のタイミングのいい上手投げで、28回目の優勝を決めた。 この優勝に際して千代の富士は「優勝できて、愛のためにいい供養ができた」とコメント。 同年9月場所には通算勝ち星の新記録を達成し、同年に大相撲で初となる「」授与が決定した。 この日は先代九重(千代の山)の13回忌が行われた日でもあり、千代の富士は「苦労をかけた師匠に良い報告ができます」と言った。 翌に首相官邸において、・から賞が授与された。 協会は「千代の富士」を満場一致で承認するが、本人は九重とも相談した上で辞退している。 1000勝到達〜現役引退 [ ] 1月場所には優勝回数を30と大台に乗せた。 同年3月場所の7日目には戦に勝利して前人未踏だった通算1000勝の大記録を達成した。 しかし、同年5月場所と7月場所はに優勝を奪われ、旭富士の横綱昇進の引き立て役になった。 さらに夏巡業で左足を痛めて同年9月場所を全休、35歳という年齢から引退を囁かれたが、同年11月場所に復帰して4横綱が存在する中で14日目に31回目の優勝を決め、同時に幕内通算804勝目を上げて北の湖と並んで史上1位タイとして貫禄を見せ付けた。 1991年1月場所初日に幕内通算805勝目を挙げ、当時の大相撲史上単独1位(現在は史上2位)の記録を達成したが、翌日の戦で左腕を痛めて途中休場。 翌場所も全休した。 復帰場所となった1991年5月場所は初日に新鋭・と対戦。 3月場所の休場を経て5月場所を出場した目的である貴花田と対戦する が、まわしが取れず頭をつけられて寄り切りで敗れた。 再燃する引退説をこの時は否定、翌日の戦は勝利したものの納得いく相撲とは程遠く「もう1敗したら引退する」と決意して3日目の戦に挑んだが、現役時代で唯一なったを受けて完敗。 この貴闘力戦の取組を最後に、その日の夜に九重部屋にて緊急記者会見して現役引退を表明。 その冒頭、 「体力の限界・・・、気力もなくなり、引退することになりました。 」と呟いたのは有名である。 そして「最後に貴花田と当たってね、若い、強い芽が出てきたな、と。 そろそろ潮時だな、と。 」と貴花田戦の衝撃をコメントしていた。 そうして「小さな大横綱」として歴史に名を刻んだその相撲人生を終えた。 日本相撲協会はその理事会において功績顕著として全会一致で一代年寄を認めたが、将来的に九重部屋を継ぐことが決まっていたため、同じ九重部屋に所属していた16代・(元前頭1・)と千代の富士自身が所有していた年寄・の名跡交換を行い、17代・陣幕を襲名し九重部屋の部屋付きの親方となった。 あと1回優勝すればの優勝32回に並ぶところでの引退であり、巷では引退を惜しむ声が高かったが、九重は塩澤実信のインタビューで「そりゃみんなそう言うし、本人もできればもう一度優勝して辞めたかったんだろうけど、しかし僕は『記録は31回も32回も一緒だ。 記録にこだわっちゃいかん。 辞める時が大事だ』と言ったんです。 そういう意味じゃ、僕も納得したし、千代の富士本人も納得したいい辞め方だったと思います」と答えている。 千代の富士の引退相撲・は1992年1月場所後に行われた。 引退後 [ ] 4月に師匠の九重(元横綱・北の富士)と名跡交換し九重部屋を継承。 しかし、まもなく陣幕(先代九重)との考え方の違いなどもあり。 弟弟子の八角(元横綱・北勝海)が10月に九重部屋から独立しを創設する際、陣幕を含む部屋付の年寄全員が同部屋に移籍することになった。 さらに、施設も旧九重のものを継承し九重の方が部屋を出て行く形となった。 このため、九重は自宅を改装して部屋を新設した。 現在の九重部屋は「大横綱・千代の富士が師匠の相撲部屋」という色を前面に打ち出した部屋になっている。 現役にはいつも厳しい口調で辛口だったが、優しい一面もあった。 部屋では弟子との交換日記を欠かさず、赤ペンでアドバイスを送った。 取組後には絵文字入りのメールも。 ケガをすると将来を優先し、無理をさせずに休場させるのが方針だった。 引退後、5月場所まで毎場所に渡ってに「一刀両断」と題した相撲解説コラムを連載していた(系列紙のには「ウルフの目」というタイトルで掲載)。 注目した取組や力士に関する独自の解説、相撲界への提言、優勝力士の予想など幅広く執筆していた。 優勝力士予想については千秋楽当日でも当たらない場合があった。 しかし、親方業の傍ら執筆しているために自分のに所属する力士の情報なども詳細に語られ、新聞の相撲担当記者が書いた記事とは違った魅力がある。 晩年には力士の稽古不足・下半身の強化不足を主張し続けた。 日本相撲協会では、にと揃って役員待遇に昇格し、審判部副部長を務めていたが、評議員が少ないに所属しており、さらに一門内でも外様出身 であるため、理事に立候補することが出来ずにいた。 また、に弟弟子のが格上の監事に就任したり 、また、長く審判部副部長を務めているのにもかかわらず、理事が務める審判部長には・・と大関止まりの理事が3代続いて九重を超えて就任していて、「副部長を務めている」と言うより「部長に昇進できずにいる」という印象が強かった。 しかし、半ばより始まるのトラブルやで角界が大揺れの中、一門代表の理事・が朝青龍の師匠として責任を問われたことにより2月からようやく理事に就任し、広報部長・指導普及部長を務めた。 審判部の職から離れたことでの大相撲中継の解説者として登場することが可能となり、2008年3月場所8日目には15年ぶりに正面解説席で幕内取組の解説を務めた。 また、直後の5月場所から東京場所限定でファンサービスの一環として、親方衆による握手会を開催して先着100名に直筆サイン色紙をプレゼントした。 その後は日替わりで・とともに日本相撲協会のキャラクターグッズを先着100名にプレゼントをした。 その直後の理事選挙には、高砂一門から立候補して当選を果たし、新弟子検査担当・ドーピング委員長を兼任する審判部長に就任した。 理事長が放駒に代わった後の体制では巡業部長を務めている。 9月場所7日目に正面解説席で解説を務め、この日に自身の連勝記録(53連勝)を超えたを支度部屋で祝福した。 の理事改選で再選されるが最下位当選。 しかし、改選直後の理事会において、とともにの理事長就任に尽力したことから、論功行賞により2月の職掌任命において、事実上のナンバー2である事業部長に就任した。 9月に理事が辞任したことを受けて、総合企画部長と長も兼任。 北の湖が腸閉塞のため2014年1月場所・初日から7日目までを休場する中で理事長代行を務める運びとなり協会あいさつも担当。 あいさつとして「大関が休場致し遺憾に存じます」と述べる。 の理事改選では最下位である5票しか獲得できず、11人の候補者中唯一の落選となった。 現職の事業部長の落選は史上初であったが、理事・九重への悪評は「豪傑すぎる言動」として常時指摘されており 、件の理事選で高砂一門が八角を第1候補に擁立していたことからも、驚きをもって迎えられることはなかった。 同年4月の職務分担では委員に降格。 友綱(元関脇・)のように前期に理事を務めた年寄が次の職務分担で委員に降格する例が過去にも存在するが、前期の年寄序列と現役時代の実績を考えれば左遷や冷遇と呼べるものがあった。 育成面では前述の千代大海の他に、、を育てている。 大鵬以降の一代年寄で弟子が大関に昇進した親方は2016年時点では九重ただ一人である。 (ただし前述の通り、一代年寄は辞退している。 ) 還暦土俵入り [ ] 6月1日、(60歳)を迎え、前日の5月31日に両国国技館にて、北の湖以来2年ぶり10人目のを行った。 土俵入りの露払いをが、太刀持ちをが務めた(いずれも当時横綱。 両者ともに現役横綱が務めるのは初)。 この還暦土俵入りに際しては、太刀持ちの、また新調した赤い綱の御幣(これまでは白色)も赤色にし、記念パーティーの羽織ひもも赤にするというこだわりを見せていた。 現職のまま61歳で死去 [ ] ところが、それからわずか1か月後の2015年7月に「内臓疾患」として7月場所を全休。 同年9月場所で復帰した際に 、同年6月の定期検診で癌が見つかっていたこと、のを受けていたこと、約1か月入院して 7月末に退院していたと9月13日(同場所初日)に自ら述べた。 7月20日頃には、周囲に「ありがとね」と感謝の言葉を口にしていた。 「昭和の大横綱」北の湖(当時、日本相撲協会理事長)がによるのため2015年夜に62歳で死去。 11月場所に出場するため北の湖理事長は福岡市内に滞在していた。 翌、九重親方はNHKの大相撲中継番組に同場所14日目の解説者として出演し、1981年1月場所に北の湖を下して幕内初優勝を達成した優勝決定戦のVTRを見て「自分が本当に勝ったのか…という状態だった」と述懐。 さらに、「きのう病院に運ばれたことは聞いていたが、その何時間後にまさか…」「自分たちの世代は全員(横綱北の湖は)大きな壁で大きな目標だった。 それを超えないと何にもならない。 そういう意味で偉大な人だった」と目を涙で潤ませながら語り、急死した北の湖を悼んだ。 しかしその後、に入ってから癌が再発。 胃や肺などに転移しており、鹿児島県などで放射線治療などを受け続けていた。 2016年3月場所のころからは急激にやせ細り 、2016年7月場所の九重部屋宿舎ではやせ細った姿が見られ 、同場所4日目の7月13日からは体調不良を訴え休場し、帰京して入院していた。 7月場所3日目には監察の部屋で「きついなあ、きついよ」と言って机に突っ伏しており、同じ監察委員として九重親方の側にいた(元横綱・)は「そんなこと言う人じゃなかったから、びっくりした」と語っている。 ウィキニュースに関連記事があります。 2016年8月1日 2016年7月31日(日)17時11分、にて膵臓癌のため死去。 61歳没。 次女の秋元梢が同日夜に、「最期は苦しむ事なく、家族全員に看取られて、息を引き取りました」と報告した。 8月1日には12代九重の北の富士が弔問し、「穏やかな表情だった。 やっぱり、千代の富士らしい顔でね。 ご苦労さんしかないでしょう」「千代の富士とは縁もあって、横綱になってくれて先代に面目が立った 」と語った。 同月6日には通夜、7日には葬儀・告別式が九重部屋で営まれた。 弟弟子である八角理事長や前監督 当時 の、歌手のら約1000人が参列した。 また、交友のあった二軍監督のや1989年に国民栄誉賞授与を決めた当時の内閣総理大臣である海部俊樹らから弔電が寄せられた。 戒名は「千久院殿金剛貢力優梢禅大居士」(せんきゅういんでんこんごうこうりきゆうしょうぜんだいこじ)。 10月1日には「第58代横綱千代の富士 お別れ会」が国技館で行われ、故人と親交のあった関係者約1500人が参列、一般ファンによる献花には約3500人が長蛇の列をつくり故人を偲んだ。 を読んだ友人のは、故人の半生を描いたドラマ『』の主題歌で自身の楽曲「」を熱唱、最後に「千代の富士〜!」と絶叫して追悼した。 は、生前の九重(千代の富士)が力士および年寄として相撲界の発展に尽くしたことや、昭和を代表するスポーツ界のヒーローとして一般大衆への認知度が高いことなどを踏まえ「没日・7月31日付にて千代の富士(秋元貢)をに追叙し、を追贈する」と2016年8月24日のにおいて決定した。 力士として [ ] 取り口など [ ] 歴代3位・通算31回の幕内最高優勝を果たしたほか、歴代3位の通算勝利数(1045勝)と同3位の幕内勝利数(807勝)、1988年5月場所7日目から同年11月場所14日目までの 53連勝(制度導入後歴代3位)など、数々の栄光を手にした 史上有数・昭和最後のである。 小兵ながら速攻とを得意にして一時代を築いた。 体格で上回る力士との差を埋めるために土俵上では凄まじい集中力を見せ、本場所で負けた相手に対しては相手の部屋に出向いて稽古、攻略法を身につける努力家。 廻しを緩まぬようにきっちり巻くことにより、四つに組み相手の指が廻しにかかっても腰の一振りで払いのける、など体格差を感じさせない取り口で、全盛期に見せた相手の頭を押さえるような独特の上手投げは、「ウルフスペシャル」としてつとに知られた。 このウルフスペシャルは「横綱になったら勝った相撲は新聞に載せてもらえない。 それなら勝っても取り上げてもらえるような相撲を取ろう」という思いから編み出されたという。 鍛え抜かれた腕力を生かした廻しの引きつけには驚異的なものがあり、重い相手も腰を浮かせた。 また、体の芯が異常に強く、常に軸がぶれずに堂々とした相撲を取った。 自身が得意とした前ミツ相撲は輪湖時代の四つ身時代へのアンチテーゼとも言われた。 元々力任せな投げを武器としていただけあって腕力に長けており、1981年2月の測定では左の握力が92kg、右が89kgを記録した。 同じ測定で千代の富士の記録を破ったのはただ1人であり、全盛期は100kg近くの握力を誇った出羽の花も3位に甘んじていた。 左前褌を取る稽古を積み重ね、本場所の取組でも左前褌を取ることを徹底したことから、左手小指の爪は常に切る必要がないほど擦り切れていた。 横綱土俵入りは四股も美しく、全体として気合の入った土俵入りでかなり上手い。 重い横綱を付けた状態で上げた足が頭より高い位置に達する のは、千代の富士のほかにはあまり例がない。 また取組前の入場時には両手で下がりを持ち、制限時間いっぱいになった時には、頭を下げて廻しを右手で叩いてピンク色のタオルを受け取り、必ず左右の腋の下の後に顔面の汗を拭くなど、几帳面に見えるほど礼儀作法を重んじている。 の踏み込みの鋭さは歴代屈指のもので、短距離走のスタートにも例えられた。 この鋭い立合いがすぐに得意の左廻しを奪うこと、重みに優る相手にも当たり負けしない強さを可能にしていた。 休場明けの場所に強いことも特徴で、実に6度も休場明けの場所で優勝している。 特に30代に入ってからが顕著で、休場の度に限界がささやかれながらも翌場所に優勝して不死鳥とも言われた。 筋肉質な体型 [ ] その強さもさることながら、均整のとれた筋肉質の体格(183cm・126kg、体脂肪率10. 幕内から大関、横綱へ一気に昇進してからは絶大な人気を誇った。 相撲協会診療所の林盈六医師は「筋肉質というのは、生まれつきの体質なんですね。 骨が太いから、筋肉が余計についている。 毎年2月に全関取を測定していますから分かるんですが、レントゲン写真でも千代の富士は明らかに骨が太い。 それに引き換え、アンコ型の力士というのは骨が細いんです。 胸部撮影で鎖骨の写真なんか見ると、それがよく分かります」「そして素晴らしい点は皮下脂肪がついていない。 十両以上の力士で千代の富士は一番少ない。 あの痩せているよりも、なお皮下脂肪が少ないんですからね。 測定した数字で言えば上腕が9mm、背中が10mm、腹が9mmなんです。 これを幕内力士の平均数値、各15mm、20mm、20mmと比べて見れば分かって頂けるでしょう」と1981年2月の検査について分析して絶賛していた。 現役時代のある時、巡業で自分より40㎏も重い力士に稽古土俵で胸を出したら、胸に当たった力士の頭が割れた、というエピソードがある。 エピソード [ ] 家族・関係者 [ ]• 岳父は玄洋社記念館館長、玄洋ビル社長を務めた進藤龍生。 夫人は(第2代・第5代社長)ので、(第十代玄洋社社長、元)の。 次女はので、その夫は俳優の。 他に長男の秋元剛と長女の秋元優(梢の兄と姉)も同じくファッションモデルとして活動している。 上述の通り、梢の妹に当たる末娘もいたが、生後4か月で他界した。 出身地や卒業した小学校とも千代の山と同じで、これは非常に珍しいケースで他に例がない。 故郷の福島町にはがあり、千代の山と千代の富士の土俵入りの様子をモデルにした銅像がある。 横綱昇進前 [ ]• 晩成型で最年少記録の類とは無縁であるが、19歳で新十両、20歳で新入幕と出世は早く、新入幕からしばらくは「幕内経験をもつ最若年者」の地位を保っていた。 1978年ごろ、元恋人が借金を抱えていたこと、らの誘いを受けていたことからプロレス転向を考えていたが、プロレスでも肩を壊せば脱臼だけでなく左腕切断の危険性もあり、これは思いとどまった。 「入幕後、幕下まで陥落」「三役昇進後、十両まで陥落」という経験を併せて持つことは、後の大横綱としては極めて異例。 尊敬する力士として貴ノ花を名を挙げている。 新入幕後に十両から幕下で低迷してしまいやけになって煙草の本数が増え、一時は1日3箱も吸うヘビースモーカーとなったが 、貴ノ花から禁煙を勧められたことに「尊敬していた大関がそんなに自分の事を心配してくれているのか」と感激し、50万円のの金のライターをに投げ捨て、さらにあめ玉を使って禁煙を果たした。 これがきっかけで体重が増え、後の横綱昇進につながった。 詳細は「」を参照• 脱臼癖に苦しめられてきた千代の富士であったが、一方では脱臼が大成の一助になったという見方もある。 は「若い頃は軽量のくせに相手を引っ張り込んで、天井を向いて上手投げにいく『身の程知らずの相撲取り』だった」と語っている。 そのような大きな相撲から前廻しを引き、頭をつける体格にマッチした取り口に変わっていったきっかけは、少しでも脱臼のリスクを軽減するためだった。 この相撲が完全に身につき、大関・横綱に進むことができたことから、九重は「脱臼が千代の富士という大横綱を作った。 前のままの相撲ならのような存在で終わったかも知れない」と語っている。 千代の富士自身も「もう少し早く、この相撲の取り方に気付いていたら、もっと早く横綱になれていた」と語っている。 対戦相手への対策 [ ]• 平幕時代苦手にしていた力士がで、鋭い当たりと一気の出足に苦しんで初顔合わせから5連敗したが、出稽古で克服して6度目の対戦では初勝利を挙げ、その後は逆にカモにする(通算で千代の富士の22勝6敗)。 ある日、での三番稽古の際に琴風の右指が大きく裂けるケガをしているが、琴風本人は裂けた瞬間全く気がつかなかったという。 「打倒琴風」を胸に琴風との出稽古を開始した千代の富士は「がっぷりになる前に十二分の力を出せるように」と速攻相撲の体得に取り組み、見事果たした。 横綱昇進して3年ほど経つまでは琴風との三番稽古を度々行い、これが双方の地力強化につながった。 琴風自身も、「千代の富士関には勝てなくなったけど、(千代の富士関と)三番稽古をしたおかげで私も大関になれました」とコメントしている。 隆の里については千代の富士曰く「裏の裏をかかれる」。 大関から横綱にかけて8連敗するほど苦手にしていた。 通算でも13勝18敗(十両1勝2敗、幕内12勝16敗)と負け越しており、隆の里に負けたことで優勝や全勝を逃した場所が多かった。 特に1983年7月場所から1984年1月場所にかけて4場所連続で勝った方が優勝という千秋楽相星決戦を行い1勝3敗を記録、この間に隆の里は横綱に昇進し、新横綱だった9月場所では全勝決戦を制して15日制で唯一の新横綱全勝優勝という偉業を成し遂げている。 との共著『私はかく闘った 横綱千代の富士』 「 隆の里の証言 「私は、五六年初場所の同点優勝で、千代の富士関が北の湖さんを破ったときから、次の天下を取るのは千代の富士とにらんだんです。 その日から、千代の富士の相撲のデータを集めました。 自分が上位に上がるためには、王者になる千代の富士を破らなければいけないと考えたんです。 」 「データは、本場所のビデオはもちろんのこと巡業中の千代の富士の稽古、それに千代の富士の物の考え方が知りたくなりまして、趣味嗜好や横綱の読む本まで調べたものです。 巡業中は、なるべく千代の富士関のそばに明け荷を置いて、暇なときに何をするか観察したものです。 そうして集めたデータから、今場所の千代の富士は、どう攻めてくるか作戦を練ったものです。 」 「大事な一番で顔を合わせるときには、二、三日前から、二四時間、一緒に生活している気持になって相手の出方を考えたものです。 」 「私にとっては、千代の富士関は、最大のライバルでした」 110ページ 」 同書で、向坂から隆の里の自身への対策の数々について知らされた千代の富士は「うーん、これでは当然研究負けだね。 こっちはそこまでは考えてなかったもの...... 」と唸っている。 小錦についても上述の1984年9月場所の初対戦では完敗している。 当時不振が続いていた千代の富士は目が覚めたかのように、場所後に「小錦対策」としてに出稽古を開始し、翌場所から対小錦戦で8連勝を記録(通算でも20勝9敗)。 のち双羽黒 についてもやや苦手にしており、幕内取組成績は千代の富士の8勝6敗(ほか優勝決定戦で2勝)。 ただし、優勝が懸かった一番は全て千代の富士が制している(千秋楽相星決戦2回、優勝決定戦2回)。 1987年11月場所後、双羽黒は師匠・親方(元関脇・)らとの衝突の末24歳の若さで廃業したが、千代の富士は現役引退後の著書で「もし双羽黒が廃業せずに現役を続け、さらに力を付けて来ていたら、その後の私の相撲人生は全く違っていたかも」と記していた。 このように、本場所で負けた相手に対して出稽古や巡業で相手の攻略法を見つけるほか、横綱になってからは若い力士に率先して稽古をつけていた。 特に前場所負けた相手に対して巡業では積極的に稽古に狩り出した(、、など)。 しかし、横綱昇進後には同じ力士に対して滅多に連敗しないと言われたが、隆の里以外には小錦に1987年1月場所 - 5月場所まで3連敗、小錦が初優勝した1989年11月場所 - 1990年5月場所まで4連敗している。 1年通して不振だった1984年にはには1月場所から4連敗。 北天佑には1月場所から5連敗(不戦敗を含む)している。 全盛期でもカモにしていた大乃国や・に2連敗したことがある。 さらに平幕だった安芸ノ島(当時)には1990年3月と5月に連敗し2場所連続で同力士にを配給(結局対安芸ノ島戦は千代の富士の7勝4敗で、4敗は全て金星)をしているなど、歯車が狂った時は意外な脆さを見せる所もあった。 弟弟子・北勝海 [ ]• 8歳年下である弟弟子・との稽古は毎回壮絶だったという。 その甲斐もあって北勝海は1986年9月場所に新大関、その後1987年7月場所には第61代横綱へ昇進を果たし、幕内優勝を合計8回も達成した。 さらに1989年7月場所では、千代の富士と北勝海で史上初の同部屋横綱優勝決定戦で対戦、千代の富士が優勝(しかし優勝決定戦後は二人共「今後は二度とやりたくない」と述べている)。 北勝海本人は現役引退後「大将(千代の富士)がいたおかげで自分も横綱になれたと思う」と語っており、千代の富士の指導力・影響が如何に大きかったかを物語っている。 事実、千代の富士が横綱昇進を決めた時は部屋の関取が千代の富士だけだったが、その後も北勝海を筆頭に、・が関取(共に最高位は小結)に昇進している。 当の千代の富士本人も「北勝海は同部屋ながらも自身にとって非常に良いライバルだった。 もしも稽古熱心な北勝海がいなかったら、自分の力士寿命はもっと短かったかもしれない」と語っている。 北勝海が横綱に昇進して同部屋に横綱が2人になったことで力士が2人を区別してどう呼ぼうかと思った際に、北勝海の提案で千代の富士を「大将」と呼ぶようにした話も残っているが、横綱となった身の者が先輩横綱という意味のみならず「ワンランク上の横綱」と見ていた存在感の大きさを現す逸話である。 2002年2月に行われた、元師匠の第52代横綱・北の富士勝昭のでは太刀持ちを千代の富士・露払いを北勝海が務めた(ただしを退職している北の富士は両国国技館が使えないので代わりにを借りて披露した)。 2016年7月31日、千代の富士こと九重親方が61歳で病死した際、訃報の直後は衝撃が大き過ぎてコメント出来なかった。 翌8月1日に北勝海は記者陣に対し「兄弟子でしたが、もう1人の親方という感じだった」と現役時代を振り返った後、「現役の頃から絶対に負けないという目で見ていたので治ると思っていた。 (亡くなったのは)本当なのかという感じ」と驚きを隠せなかった。 千代の富士に面会した最後は同年1月、高砂一門の会合が開催した焼き肉店で「何年か経って、二人で酒を飲みながら思い出を語りたかったのに…」と無念さをにじませている。 記録 [ ]• に敗れた「53連勝でストップ」の一番は連勝記録の方へ話題が行きがちのためあまり語られないが、実は「年間3回の全勝優勝」「3場所連続15戦全勝優勝」という史上初の快挙を逸する一番でもあった(2010年3月場所から7月場所にかけて、白鵬が達成した)。 また、50連勝以上達成した力士のうちで横綱に敗れて連勝記録が止まったケースは千代の富士が唯一(双葉山、白鵬は平幕力士(いずれも後に横綱)に敗れている)。 引退時の通算勝利数1045勝と幕内勝利数807勝は、共に当時史上1位の記録だった。 それから19年近く経過の後、が1月場所3日目に幕内勝ち星を808勝、2011年7月場所5日目には通算勝利数を1046勝とそれぞれ更新されたが、その都度九重は直接「おめでとう」と祝福の言葉を掛けて握手を交わし、「(記録を)抜かれた寂しさは全然ない。 これからの力士に励みになるようにどんどん記録を作って欲しい」とコメントしていた。 なお魁皇は1047勝、幕内879勝まで延ばしたが、2011年7月場所10日目限りで現役引退。 九重は魁皇の引退に「日々こつこつと踏ん張った成果が(通算)1047もの白星につながった。 本人は完全燃焼以上だろう。 (通算最多勝の)記録を抜いたと同時に心の芯や張りがなくなったのかも。 長い間本当にご苦労様だった」とねぎらっていた。 初日から8連勝の中日勝ち越し回数は、通算25回。 平成25年3月場所で白鵬に抜かれるまで最多。 年間最多勝の受賞は3回と、優勝20回以上の大横綱の中ではかなり少ない。 これは千代の富士の横綱昇進後の休場がほぼ年に1場所程度のペースで均等に散らばっている(横綱在位中は連続休場は一度もない)ためであり、現に休場を除いた勝率ではその年1位という年度が多く存在する。 同様の理由で連続勝ち越し場所数、連続二桁勝利場所数、任意の連続場所(10場所、12場所など)での勝ち星記録などでも実力に比例する記録は残していない。 現役引退 [ ]• 横綱昇進が決まった日の夜、九重は千代の富士を自分の部屋に呼び、いきなり「ウルフ、辞めるときはスパッと潔く辞めような。 ちんたらちんたらと横綱を務めるんじゃねえぞ」と言った。 祝儀がもらえるのかと思っていた千代の富士はこの言葉に面食らったという。 しかし、千代の富士の引退は正にこの言葉に従った潔いものとなった。 これは、から言われた言葉をが千代の山に語り、千代の山から北の富士を経て、千代の富士へ受け継がれたものと言われている。 1991年5月場所が始まる前の最大の注目は、3月場所に幕内下位ながら終盤まで優勝争いに加わったと千代の富士の初対戦であった。 何日目に対戦するかが話題となる中で、誰も予想しなかった初日に取組が組まれた。 これは当時審判部長だった九重が「勝ち負けが全くついていない、まっさらな状態で対戦させたい」との思いからであったが、千代の富士はこの取組に敗れ、その2日後に引退を表明。 ある意味、自らの師匠が招いた引退とも言える。 貴花田に敗れた時点で実は千代の富士は引退も頭をちらつかせるほどだったが、そのことを伝えに九重のもとに行ったところ、九重は千代の富士を見るなり「先に廻しを取られたからなあ。 まあ明日がんばれよ」と言った。 このために気勢を削がれた千代の富士は引退の意思を伝えそびれてしまい、引退表明が3日目の貴闘力戦に敗れた後になったという。 その千代の富士からついに引退の決意を伝えられた時、千代の富士と共に九重も思わず2人で男泣きしたという。 千代の富士が引退した1991年5月14日は午前中にが発生し、NHKでは断続的に事故に関するニュースを放送していた。 しかし夜になって、千代の富士自ら九重部屋にて突如引退会見を行うことになったため急遽ニュースを中断、駆け付けた大勢のマスコミ陣の前で会見の生中継を行い千代の富士は「長い間、本当に皆様には大変お世話になりました。 まああの(「月並な言い方ですが」と言うべきところを)月並な引退ですが…」と言った後、言葉を詰まらせながら目を赤くして、「 体力の限界! …気力も無くなり、引退することになりました…以上です…」と振り絞るように発言し記者陣の目の前でハンカチで涙をぬぐった。 後年千代の富士が自ら語ったところによると、1991年5月場所3日目の夜に九重から「明日、発表しよう」と言われたがその日の夜に『』を見ていた際に額の上に自身の引退を報じる速報が確認され、そうして慌てて会見に臨んだという。 ただ、ちょうど20年前の5月14日には、も当時新鋭だった貴ノ花に敗れて引退を表明しており、大横綱と二子山部屋、藤島部屋が絡んでいる花田家には因縁がある。 ちなみに、千代の富士が幕内初優勝を果たした1981年1月場所は、奇しくもが現役引退を表明した場所でもあった。 同年7月場所前、千代の富士改め陣幕は自ら土俵に立って若い力士に稽古をつけたが、あまりの充実ぶりにから「現役以上じゃないか。 引退させるのは早かったな」と言われたほか、周囲からは「 史上最強の新米親方」と評した人もいた。 それからに入り、当時千代の富士の持つ通算勝星及び幕内勝星を塗り替えた魁皇も「余力を残して辞められた九重親方(千代の富士)と違って、こっちは必死こいてたどり着いた記録なので。 とても比較にはならないし、申し訳ない」と謙遜するコメントを述べている。 引退相撲が行われた1992年2月1日はで放送され、最後の横綱土俵入りではに引退直後の旭富士・には弟弟子の横綱・北勝海の両横綱を随行。 を切り落とす瞬間には大粒の涙を流していた。 ロンドンにある蝋人形館であるでは最近まで千代の富士の蝋人形が置かれていた。 ウルフと呼ばれていたことなどが記されていた。 現在は内にあるマダム・タッソー東京で展示されている。 引退後 [ ]• 部屋持ち時代は北海道福島町の夏合宿時の恒例行事として素潜りを開催し、自らは誰よりも早く海に行って、いの一番に海の幸を見つけていた。 このことは2017年に日刊スポーツの絵日記企画に参加した弟子の千代丸が明かしており、千代丸もまた、5mから6mの素潜りはお手の物であるという。 現役を引退した以降も現役時代ほどではないにしろトレーニングは継続しており、還暦土俵入りでは60歳とは思えない肉体美を披露し、周囲を驚かせた。 のとは同じ北海道()出身で、また1955年生まれの同級生で親友だった。 千代の富士が現役引退後の1991年、フジテレビ系ドラマ()「千代の富士物語」では松山自らエンディング・テーマ曲として「」を製作。 ほか1992年の・や、満60歳を祝うのパーティー等にも出席していた。 だが千代の富士は2016年7月31日に61歳で病死。 通夜に参列した松山は記者陣に対して、「あれだけ屈強な男が、こんなに早く逝くとは…冥福なんか祈らない。 棺の中から早く起き上がれ、と言いたい」と悔しがっていた。 家族 [ ]• 父親は戦時中に(現)にあったに所属しており、1945年8月6日敬礼の訓練中し、救援活動で広島市内を奔走した。 1991年にが制作した証言ビデオに被爆体験を寄せた。 このため千代の富士は被爆2世である。 次女でモデル・タレントのはモデルとして成功するまで父が千代の富士であることを正式には公表していなかったが、専属モデルや広告モデルに起用されるようになってからバラエティーで公表し、「二世タレント」としてバラエティーなどに出演しているが、相撲を知らず、さらに千代の富士の現役時代を知らない世代が中心の環境であり、千代の富士自身も現役時代から引退後を通じてバラエティ番組に出演した経験があまりないため、ほとんど本人の実力で芸能活動をしているといえる。 なお、1988年5月場所に千代の富士が23回目の幕内優勝を果たし、千代の富士が天皇賜杯を抱いての記念撮影を行う際には賜杯と共に当時生後10か月の秋元を抱いて記念撮影を行い、実名を記載した報道機関もあったため(近年よく記念撮影で力士が子供と賜杯を抱いて記念写真に納まるというケースは、千代の富士が最初に行ったといわれている) 、本人が正式に公表する以前も名前で推測される可能性はあった。 趣味 [ ]• 角界屈指の好きで知られたが、元々は趣味としていなかった。 休みの日はやに夢中の千代の富士に対して、九重(北の富士)が「健康的な休みを取らないとダメだ」と無理やりゴルフに連れて行ったことがきっかけだった。 しかし初めてのゴルフのハーフで40台を出し、ワンラウンドを86で回って、九重のスコアより良かったことに「いやぁ、ゴルフっていいですねぇ!」とすっかり上機嫌になって九重のメンツは丸つぶれ、以後ゴルフにのめり込んだ。 ゴルフの他にもを趣味としていた時期もあった。 1986年4月から8カ月をかけて5146ピースもある古い世界地図が描かれたパズルを完成させたという。 これが良い気分転換となってか千代の富士の土俵人生は絶頂期に突入し、特に1987年1月場所の辺りで最後の1ピースをはめて完成させた頃の相撲を見た当時の理事長は「この相撲なら2、3年は大丈夫だな」と語ったそうだったが、その予測通りに2、3年間は全盛期に近い相撲を取り、4年後の1991年5月場所中に引退した。 その他 [ ]• 1989年11月場所5日目の寺尾戦では、寺尾を後ろから高々と抱え上げて土俵上に叩きつけるようなを放って白星を収めたが、その激しい相撲ぶりからファンの間で論争が巻き起こり、当時一部では横綱としての品格を問う声まであった。 だが2019年に寺尾はインタビューで「と違って土俵の中で落とされるだけなので誰も怪我はしない」と受け入れる発言していた。 現役時代、相撲疑惑が持たれた力士の一人ではあるが、・といった八百長の告発者たちは、「実力があってで戦っても勝ち目が無いと相手に思わせられたからこそ、相手の力士も礼金が貰える八百長に応じたということ」だと言っていた。 板井圭介はさらに「ガチンコで唯一かなわないと思ったのは大将(千代の富士)だけ」「八百長が無くてもガチンコでは大将が一番強かった」と強さを認めている。 彼ら八百長告発者によれば、そもそも大相撲の八百長はガチンコで勝てる実力がなければ参加は出来ないというのが暗黙の了解となっているという(詳細は当該項目を参照)。 なお、板井は大乃国には手をガチガチにテーピングで固めて顔を張っているが、千代の富士相手には顔を張ってはいない(元大鳴門親方によると、千代の富士は大乃国に対する顔面の張り手に懸賞金を出していたと言われる)。 また、千代の富士が現役最後の白星を挙げた相手でもある。 前述の寺尾戦での吊り落としは、千代の富士からの八百長の打診を断った為の制裁とも噂されており、この一番を見た幕内力士の間では、「やはり大将はガチンコでも強い」と評判になったという。 前述のように小錦には初顔合わせで完敗した後8連勝をしているが、高鐵山の著書『八百長』によれば、小錦の強さに脅威を感じた千代の富士は小錦を八百長の仲間に引き入れようとしたが、そのために取った方法が、「ガチンコで徹底的に勝ちまくって力の差を見せつけ、逆らわない方が得だと思わせる」で、それがあの8連勝であり、その連勝中は千代の富士の方からは意地でも八百長の打診はしなかったと述べている。 現役最後の取り組みの際には、横綱在位を「59年」と間違ってアナウンスされた。 現役時代、九州巡業の船中で同室となった()に「オレは第2の千代の富士を作りたいんだ。 それがオレの夢。 千代の富士というしこ名を弟子に継がせたいんだ」と語ったという。 最後に会ったのは2016年5月場所の初日で、監察室で「痩せたねえ」と声をかけたら、「健康管理のためにダイエットしてるんだよ」と強がって返してきたという。 高砂は「治療してることも口に出さず、弱みを見せたくなかったのだろう。 そうやって我を張って生きて、それが引退後はマイナスになった部分もあるかもしれないけど、我を張らなかったらアイツじゃない。 千代の富士らしい生きざまを、最後まで貫いて、見せてくれたと思う」と記者に語っている。 横綱として全盛期を極めていた当時、テレビ番組、特に生放送の番組に出演することはまれであったが『』()には1985 - 1987年まで3回、特別ゲストとして番組オープニングからエンディングまで出演している。 これは当時の同番組司会者であり、千代の富士・九重との親交があるの誘いを受けての出演だったと言われている。 そのため、芳村が司会を降板した1988年以降は1回も顔を出していない。 数少ない5文字の四股名を名乗った力士であり、歴代横綱の四股名では千代の富士は唯一の5文字であり、文字数が最も多い。 千代の富士の銅像が(北海道)、九重部屋玄関前(東京都)、 (東京都台東区) の3箇所に建立されている。 主な成績 [ ] 通算成績 [ ]• 通算成績:1,045勝437敗159休(通算勝ち星は歴代3位)勝率. 705• 幕内成績:807勝253敗144休(幕内勝ち星は歴代3位)勝率. 761• 横綱成績:625勝112敗137休(横綱勝ち星は歴代3位)勝率. 848• 大関成績:38勝7敗 勝率. 844• 現役在位:125場所• 幕内在位:81場所(歴代10位)• 横綱在位:59場所(歴代3位)• 大関在位:3場所• 三役在位:5場所(関脇2場所、小結3場所)• :3回• 1982年(74勝16敗)、1985年(80勝10敗)、1986年(68勝10敗12休)• 連続6場所勝利:83勝(1988年5月場所 - 1989年3月場所)• 通算(幕内)連続勝ち越し:11場所(1986年5月場所 - 1988年1月場所)• 幕内連続2桁勝利:9場所(1981年11月場所 - 1983年3月場所、1984年9月場所 - 1986年1月場所)• 幕内連続12勝以上勝利:5場所(1981年11月場所 - 1982年7月場所、1986年5月場所 - 1987年1月場所)• 通算連続勝ち越し・幕内連続2桁勝利・連続12勝以上勝利の記録については、大関及び横綱昇進を果たした1981年以降、年間全て皆勤した年が1982年と1985年の2年間に留まったため、歴代ベスト10には入っていない。 しかし、初優勝を果たした1981年1月場所以降、大関・横綱時代に皆勤した場所で1桁勝利に終わった場所は皆無である。 相星決戦 [ ] 相星決戦出場経験が通算9回あり、この回数は史上1位である。 対戦内訳は北の湖:3回、隆の里:4回、北尾(後の双羽黒):2回である。 特に隆の里とは1983年7月 - 1984年1月まで4場所連続相星決戦による千秋楽結びの対戦となった。 同じ対戦カードによる相星決戦が連続することは、他には - 北の湖(1976年11月 - 1977年1月)、北の湖 - 千代の富士(1981年5月 - 7月)、 - 貴乃花(1995年3月 - 5月)、 - 白鵬(2008年1月 - 3月)があるが、いずれも2場所連続にとどまっており、4場所連続で相星決戦が実現したケースは、千代の富士 - 隆の里以外過去に例がない。 (1988年5月場所7日目 - 1988年11月場所14日目、昭和以降では双葉山、白鵬に次いで歴代3位、大相撲史上では歴代6位) 下記に、千代の富士のその他の連勝記録を記す。 (20連勝以上対象) 回数 連勝数 期間 止めた力士 備考 止めた力士が決めた決まり手 連勝が止まった場所の連勝を止めた力士の番付 1 24 1982年11月場所2日目 - 1983年1月場所10日目 朝潮 押し出し 西関脇 2 20 1983年11月場所2日目 - 1984年1月場所6日目 朝潮 押し倒し 西大関2枚目張出 3 22 1984年11月場所13日目 - 1985年3月場所4日目 鳳凰 1985年1月場所全勝優勝 下手投げ 東前頭3枚目 4 20 1985年11月場所5日目 - 1986年1月場所9日目 旭富士 寄り切り 西関脇 5 21 1987年11月場所初日 - 1988年1月場所6日目 逆鉾 1987年11月場所全勝優勝 寄り切り 東関脇 6 53 1988年5月場所7日目 - 1988年11月場所14日目 大乃国 1988年7月場所・9月場所2場所連続全勝優勝 寄り倒し 西横綱 7 20 1989年9月場所初日 - 1989年11月場所5日目 両国 1989年9月場所全勝優勝 押し出し 東前頭3枚目• 上記の通り、20連勝以上7回、30連勝以上1回記録している。 各段優勝 [ ]• 幕内最高優勝:31回(歴代3位) 1981年 1月場所、7月場所、11月場所 1982年 3月場所、5月場所、7月場所、11月場所 1983年 3月場所、11月場所 1984年 11月場所 1985年 1月場所、5月場所、9月場所、11月場所 1986年 1月場所、5月場所、7月場所、9月場所、11月場所 1987年 1月場所、7月場所、11月場所 1988年 5月場所、7月場所、9月場所、11月場所 1989年 3月場所、7月場所、9月場所 1990年 1月場所、11月場所• 全勝優勝:7回(北の湖と並んで歴代4位タイ)• 連覇:5連覇(1986年5月場所 - 1987年1月場所)• 場所別優勝回数(東京場所:13回(蔵前国技館:2回、両国国技館:11回)、地方場所:18回)• 初場所:5回• 春場所:3回• 夏場所:4回• 名古屋場所:6回• 秋場所:4回• 九州場所:9回(1981年 - 1988年まで8連覇)• 幕下優勝:1回(1974年9月場所) 優勝決定戦に出場した6回は全て勝利し優勝している。 北の湖との1回、との2回は本割に負けた後の再戦で、土壇場での強さを見せつけた。 しかし双羽黒の強さは認めており、不祥事による廃業に関しては残念がっていた。 決定戦での勝率ならびに決定戦での優勝回数はそれぞれ最高記録保持者。 弟弟子の北勝海との優勝決定戦の経験もある。 優勝回数31回は白鵬、大鵬に次ぐ記録で、全勝優勝7回も白鵬と双葉山・大鵬に次ぎ、北の湖と並ぶ第4位、53連勝も昭和以降では双葉山、白鵬に次ぐ第3位の記録である。 また連続優勝5場所も歴代4位タイと堂々たる記録である。 参考ながら九州で行われる11月場所では、1981年から1988年までの8連覇を含め9度優勝している。 夫人が九州出身なので「九州場所は地元のようなもの」とも言われた。 その一方で、3月場所がやや鬼門のきらいがあった。 初めての全勝優勝を3月場所(1983年)で遂げたのを除くと休場も多く、1989年は優勝を決めた相撲で肩を脱臼するという憂き目にあっている。 また、両国国技館が開館した1985年1月場所から1987年1月場所まで、同所で行われる本場所(毎年1月、5月、9月)に7連覇している。 さらに、蔵前国技館と1985年開館の両国国技館の両方で優勝経験があるのも千代の富士だけである。 三賞・金星 [ ]• :7回• 殊勲賞:1回(1981年1月場所)• 敢闘賞:1回(1978年5月場所)• 技能賞:5回(1980年3月場所、1980年7月場所、1980年9月場所、1980年11月場所、1981年1月場所)• との優勝決定戦• 右肩関節脱臼により8日目から途中休場• と優勝決定戦• 左足首関節捻挫により3日目から途中休場• 右股関節捻挫により8日目から途中休場• 腰背部挫傷により3日目から途中休場• と優勝決定戦• 双羽黒と優勝決定戦• 腰部椎間板損傷により11日目から途中休場• 左肩関節脱臼により千秋楽不戦敗• と優勝決定戦• 他にでは、朝潮と双羽黒に各2勝、北の湖と北勝海(唯一の同部屋横綱決戦)に各1勝が有り、6戦全勝である。 改名歴 [ ] 四股名 [ ]• 秋元 貢(あきもと みつぐ)1970年9月場所• 大秋元 貢(おおあきもと みつぐ)1970年11月場所• 千代の冨士 貢(ちよのふじ みつぐ)1971年1月場所 - 1974年11月場所• 千代の富士 貢(ちよのふじ みつぐ)1975年1月場所 - 1991年5月場所 年寄名 [ ]• 陣幕 貢(じんまく みつぐ)1991年5月15日 - 1992年4月1日• 九重 貢(ここのえ みつぐ)1992年4月1日 - 2016年7月31日 関連作品 [ ] 書籍 [ ] 自著 [ ]• 陣幕貢『負けてたまるか』東京新聞出版局(1991年)• 千代の富士貢『不撓不屈 : 一〇四五勝への道のり』日之出出版(1992年)• 九重貢『ウルフと呼ばれた男』読売新聞(1993年)• 九重貢『綱の力』ベースボールマガジン社(2011年) 共著 [ ]• 千代の富士貢、『私はかく闘った 横綱千代の富士』日本放送出版協会(1991年) 漫画 [ ]• 『千代の富士物語 北の大将 上・下巻』(山崎匡佑) テレビドラマ [ ]• 『』最終話「真人さん頑張って」(、1981年)• 『』枠で放送。 第1部は1991年6月2日 - 23日(全4回)、第2部「青春編」は1992年2月2日 - 9日(全2回)、第3部「栄光への道」は1992年10月4日 - 11日(全2回)にてそれぞれ放送された。 演出は清水満、中村金太。 脚本は、。 音楽はが担当。 (新弟子時代)、(現役時代)が千代の富士を演じた。 楽曲 [ ]• 燃える涙:の楽曲。 関西テレビドラマ「千代の富士物語」エンディングテーマ。 ミニ・アルバム『』(廃盤)に収録。 昭和の旋風(かぜ)〜ウルフ〜:石原修二の楽曲。 石原は三重県鳥羽で漁師宿「」を営む傍ら演歌歌手として活動し、千代の富士存命時からその趣味であった釣りを通じ長年家族・部屋ぐるみで付き合いがあった。 訃報を受け自ら作詞し、歿後1年に合わせて2017年7月26日にからリリース。 TV CM [ ]• ビタシーZ1000:1983年 ゲーム [ ]• 千代の富士の大銀杏(、FACEより発売。 ) メインモードの「昇進モード」は本場所で相撲を取って番付を上げ、稽古をしながら能力を上げていき、横綱を目指すことが目的。 「昇進モード」には難易度の高い「関取モード」と初心者向けの難易度である「幕下モード」がある。 千代の富士は「関取モード」のラスボス的存在として登場する。 他にも「練習モード」「対戦モード」「観戦モード」がある。 ゲーム画面は『つっぱり大相撲』と酷似している。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 当時、が所有していただったとされ、当時は福島町の町長でさえも搭乗したことがない乗り物だった。 鋭く当たって左からのおっつけで体勢を起こし、突き落とそうとする大受の動きに乗じて回り込み、寄り立て、がぶり寄りの攻めで寄り切った。 天龍に弾かれるようにしていなされ一方的に突き出されるなどの敗戦がある。 自著『負けてたまるか』では父が戦時中に広島で被爆していたことについて記述されており、肩のかみ合わせとの因果関係が示唆されている。 肩を徹底的に鍛えて筋肉で固めたことが脱臼しにくくする効果はあった反面、脱臼してしまうと元に戻すことが非常に難しくなってしまい、これを治せた人は元大関・の伊勢ヶ濱親方1人だけだった。 このため千代の富士が肩を脱臼すると伊勢ヶ濱親方がすぐに支度部屋に駆けつけていたほどだった。 はめ直すシーンはたびたびテレビ中継で放映された。 書類を受け取った担当の親方が書類をポケットに入れたまま提出するのを忘れてしまった。 この取り口の変化は北の富士も予想していなかった。 北の富士は「前みつを取って食い下がって投げを打って勝つような相撲になると思っていた」と語っている。 立合いから左前みつを取って攻め立てた。 敗れはしたものの足腰の良さを発揮して輪島の投げを再三しのぎ、連続投げについていく場面、瞬発力を活かして攻勢に出る瞬間もあった。 最後は吊り出されて敗れたが、輪島を吊ろうとする場面もあった。 土俵入りの型は一門・部屋ごとに伝統があり、横綱個人の意思で選択できるというわけではない。 1984年11月場所終了時点で優勝回数は10回に到達したが、で開催の東京場所の優勝は2回のみ(1981年1月場所・1982年5月場所)に終わっている。 この時は賜杯を受け取り損ねることがないように親方()が表彰式に付き添っていた。 直前の9月場所で千代の富士は 29回目の優勝を達成、また授与式が行われたのも9月 29日であった。 さらに、授与した側である海部俊樹は、「に 29歳で初当選したから、 29年後には総理大臣になる」と公言して、実際に 29年後の1989年に総理大臣に就任したばかりであった。 このため、一代年寄に千代の富士を含めるかどうか解釈が分かれているが、大鵬は自身のの際に「千代の富士も含まれる」との見解を示し、この還暦土俵入りに千代の富士(九重)を露払いとして随行させている。 その20年後の5月場所千秋楽にも史上2人目の通算1000勝を達成した。 引退を表明した5月14日は午前10時35分頃にが発生していたため、や各社にとっては事故の報道と横綱引退報道が合わさる形となり、多忙をきわめた1日となった。 2002年には北の富士の還暦土俵入りに太刀持ちとして率先して随行するなど、個人的な関係までは悪化しなかった。 また、北の富士は不仲については否定し、「信頼している」とまで発言していた( - 、2016年8月1日、9時53分)。 北の富士は相撲協会退職後も八角部屋最上階に居住している。 北の富士は「千代の富士は一人でやれるし、いても邪魔になるだけ。 八角は応援してやらんと」と、九重の能力を評価し、自由に運営できるようにするために配慮したことと同時に、八角への支援の必要性があったことを理由としている。 が継承した後も、2020年に葛飾区に移転するまでの間、千代の富士の遺族から施設を借用している。 たとえば、三段目に昇進すると四股名が与えられるが、全ての力士に「千代〜」と命名していた。 なお、千代大海が九重部屋を継承してからは、「三段目に上がることを最終目標にしてはいけない」ということで新弟子の時点で四股名が与えられる方針に変わったが、やはり全員「千代〜」と命名されている。 千代の山がから独立した際に出羽一門を破門され、高砂一門入りしたことによる。 八角が九重部屋から独立した際に部屋付の年寄が全員に移籍したことも影響している。 同じことを貴ノ花はにも勧めたとされているが、栃赤城は「それならば幕内を維持しているほうがいい」と言って拒否したという。 同様に千代の富士は賜杯と共に自身の子供を抱いての記念撮影を長女、長男、三女とも行っている(長女は1984年11月場所、長男は1987年11月場所、三女は1989年3月場所)。 特に初めて番組に顔を出したときには、がとの過激なパフォーマンスを展開して物議を醸した回で、歌の最中に千代の富士は不機嫌な表情を浮かべながらその一部始終を見届けており、その形相を気にした芳村が話題をそらそうとして千代の富士に頻繁に話しかけていた。 該当の回は芳村のパートナーの司会者がからに交代した初回であり、古舘が当時実況を担当していた『』の繋がりで、この番組で試合を中継していたプロレス団体であるの当時社長で古舘と交友のあったも出演していた。 猪木と千代の富士はその後も猪木の引退試合に千代の富士が駆けつけたり、千代の富士の還暦土俵入りや死去の際には猪木が駆けつけたりするなど、千代の富士が死去するまで交友が続いていた。 また、師匠である北の富士は現役力士だった時代に歌手として『夜ヒット』に出演した経験がある。 玉林寺は秋元家の菩提寺であり、乳児の時に死去した三女の墓がある。 出典 [ ] []• 2017年8月1日閲覧。 『大相撲名力士風雲録』2、、2016年、26頁。 ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ 3 高砂部屋』p70-72• 陣幕貢『負けてたまるか』東京新聞出版局、1991年、 [ ]。 別冊「」大相撲特集号春場所(日本放送出版協会発行)の記事より。 卓上四季. 2016年8月2日. 2016年8月3日時点のよりアーカイブ。 2017年8月1日閲覧。 スポーツニッポン新聞社. 2016年8月1日. 2017年8月1日閲覧。 , p. , p. , p. 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十一代目市川團十郎の妻・堀越千代の人生が壮絶すぎる…

千代の 富士 身長

スポンサーリンク スポンサーリンク こんにちは! 歌手の 寺田嘉代(てらだ・かよ)さんが1月31日、脳出血で死去したことがわかり、日本中が哀しみに包まれました。 寺田さんには、双子のお姉さんの 寺田千代さんと姉妹ユニット「 ドリーミング」を結成して、「 アンパンマンのマーチ」やエンディングテーマ「 勇気りんりん」、同アニメのキャラクターのイメージソングなどを歌っていました。 千代さんと嘉代さんは、双子ということもありますが、そっくりですよね。 ステージ衣装を着ていると、わたしなど全く見分けがつきません。 アンパンマンのステージで、軽やかに謡い踊るお二人に、子供だけでなく、大人である私たちも、どんなに慰められたことでしょう。 東日本大震災のあの絶望的な日々に、保育園や幼稚園ではアンパンマンの歌を、先生と子供たちが歌っているとニュースで観ました。 アンパンマンの歌は、東日本大震災で大きな被害をうけた人たちの沈んだ心を、大いに励ましてくれました。 アンパンマンのやさしさ、友達を思う心、へこたれない、ゆうきりんりん。 ドリーミングの澄んだ歌声を、子供たちと一緒に何度きいたことでしょう。 嘉代さんが亡くなってまだ、日も浅いのに、こんなことを聞いてはいけないかもしれませんが、千代さんの今後はどうなるのでしょう? 今回は、千代さんのプライベートに迫りつつ、やなせたかしさんとの関係についても調査したいと思います。 題しまして、 寺田千代の年齢や出身・身長と学歴や経歴は?やなせたかしとの関係も! ということで、寺田千代の年齢や出身・身長と学歴や経歴について、やなせたかしとの関係も!についてまとめていきたいと思いますので、ご参考になれば幸いです。 それでは早速、本題に行ってみましょう! スポンサーリンク スポンサーリンク 寺田千代の年齢や出身・身長と学歴や経歴は? の さん。 これまで、やなせ先生、作曲のアンパンマンソングを唄っていただきありがとうございました。 今、この気持ちは、感謝とご冥福の気持ちしか、ありません。 — 久住隼人(クスミハヤト) FARUKON1048 アニメ「それいけ! アンパンマン」のテーマ曲「アンパンマンのマーチ」を歌う双子姉妹デュオ「ドリーミング」の寺田嘉代さんが1月31日に脳出血で亡くなっていたことが12日、分かった。 同日、所属事務所のライツ・インと所属レーベルのバップが連名で公式サイトで発表した。 通夜・告別式は、遺族の意向により親族・近親者のみにより執り行い、後日「お別れの会」を開く。 姉の寺田千代(ちよ)の活動は継続していく予定だという。 引用元:日刊スポーツ 妹の嘉代さんの訃報を伝えるニュースです。 いまみても、双子のお二人のどちらがお姉さんなのか、妹さんなのか分かりません。 ドリーミングのお二人は、、1988年10月に日本テレビ系でCDデビューしました。 お二人は、• 「アンパンマンのマーチ」• 「勇気りんりん」• 「アンパンマンたいそう」• 「サンサンたいそう」• 「ドレミファアンパンマン」 など、キャラクターのイメージソングを300曲レコーディング。 そして、全国で5500以上もステージをこなしたのだそうです。 お二人のステージで、子供たちり喜ぶ顔がみたくて、せっせと通ったのも懐かしい思い出です。 豚にアンパンマンのマーチは、大人でも歌える人、結構いるのではないでしょうか。 ドリーミング アンパンマンのマーチ 子どもはだれもが歌える — ガッテム竹内 元ハガキ職人 gtt214214 一緒にうたっいた嘉代さんはもういませんが、発表によると。 姉の寺田千代さんは活動は継続していく予定だということで、少し安心しました。 ここで改めてドリーミングの姉の千代さんの情報をみてみましょう。 名前 寺田千代(てらだ・ちよ) 生年月日 1963年1月8日 年齢 56歳 出身地 宮崎健 職業 歌手 身長 152cm 血液型 O型 学歴 宮崎学園高等学校 最終学歴 国立音楽大学・声楽科卒 寺田嘉代さんは、年齢を公表されていないのに、バラしちゃって申し訳ありません。 でも、56歳と言えば、まだまだご活躍できる年代なのに、妹の嘉代さん、亡くなるの早すぎです。 お二人は、どちらも結婚していなくて、家族はネコだったと報道で知りました。 嘉代さんと千代さんとネコちゃんとのご家族だったのですね。 がっと2人でユニットを組んでやってきて、家に帰っても一緒だったなんて、仲の良い姉妹だったのでしょうね。 これから千代さんは、寂しくなると思いますが、家族の一員であるネコちゃんが慰めてくれることと思います。 気になる寺田嘉代さんの学歴ですが、高校は、宮崎女子高校(現宮崎学園高校)、最終学歴は最終学歴 国立音楽大学・声楽科卒と判明しました。 高校では、合唱部に属していたそうですね。 千代さん嘉代さんお二人同じ学校に入学。 実は、最初、オペラ歌手を目指していたということですよ。 やなせたかしとの関係も! ドリーミングの歌で一番好きな曲。 1988年の『それいけ!アンパンマン』第一回目の放送からのエンディングテーマ。 30年経った現在も週替わりで使用されてます。 子供だった自分が大人になった今でも変わらずテレビから流れてくるって嬉しい。 これからも続くといいなぁ。 アンパンマンが大好きな世代って、どれくらいいるでしょうね。 そんな曲を歌い続けていたドリーミングは実は、2019年1月9日に、デビュー30周年アルバム「それいけ、トリーミング」を発売させていました。 妹の寺田嘉代さんは、そのリリースの3日前に倒れたのだそうです。 亡くなったのは、それから26日後。 姉の千代さんはコメントを発表し、 「デビュー30周年記念アルバム『それいけ!ドリーミング』を完成させ、 リリースを3日後に控えた1月6日。 これほどまでに『アンパンマンのマーチ』を深く味わい、 やなせスピリットを体得できた日々はありませんでした。 それは、喜びにさえ感じるかけがえのない時間でした。 『 絶望の隣には希望がそっと座っている』 やなせ先生のお言葉です。 2019年2月12日に配信された「ORICON NEWS」より 30年間やなせたかしさんの歌を歌い続けた、ドリーミングのお二人。 千代さんと嘉代さんは、やなせたかしさんのスピリットをしっかり受け止めていた方々だったのですね。 嘉代さんが亡くなっても、やなせ星にやなせ先生が待っているのだから、ちっとも寂しくない。 千代さんは、そう思っているのかもしれません。 嘉代さんのご冥福を心からお祈りいたします。 そして、千代さんのこれからの益々のご活躍を期待しています。 改めて、ドリーミングのアンパンマンのマーチをお聴きください。

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