さん け べつ ヒグマ 事件 nhk。 三毛別羆事件

1915年に「三毛別羆襲撃事件」で討伐されたヒグマの写真。でかいwwww

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事件の経緯 巨大ヒグマの出没 1915年()11月初旬のある夜明け前、の池田家に巨大なヒグマが姿を現した。 飼い馬が驚いて暴れたため、そのときの被害は保存食のとうもろこしに留まった。 村は開拓の端緒にかかったばかりの土地でもあり、このような野生動物の襲来は珍しいものではなかったが、主人である池田富蔵(いけだ とみぞう)はぬかるみに残った足跡の大きさ(約30cm)に懸念を持った。 11月、ふたたびヒグマが現れた。 馬への被害を避けようと、富蔵は在所と隣村から2人のを呼び、3人でることにした。 30日、三度現れたヒグマに撃ちかけたが、仕留めるには至らなかった。 その夜、長男・富吉 (とみきち)や妻に留守を頼み、次男・亀次郎(かめじろう・当時18歳)を加えた4人で鬼鹿山方向へ続く足跡を追い血痕を確認したものの、地吹雪がひどくなりそれ以上の追撃を断念した。 たちは、件のヒグマは「穴持たず」という、何らかの理由により冬眠し損ねたクマであると語った。 さらに足跡の巨大さから「このクマはあまりの巨体のため、自分の身に合う越冬穴を見つけられなかったのではないか」と推測し、「穴持たず」となったクマは非常に凶暴であることを付け加えた。 引用 最初の惨劇 秋から冬にかけ、開拓村では収穫した農作物を出荷するさまざまな作業に追われていた。 のような僻地では、それらの作業は人力に頼らざるを得ず、男達の多くは出払っていた。 12月9日の朝、川上流に居を構える太田家でも、同家に寄宿していた伐採を生業とする長松要吉(ながまつ ようきち、当時59歳。 通称オド)が一足早く仕事に向かい、当主の(おおた さぶろう、当時42歳)も氷橋(すがばし)に用いる桁材を伐り出すため出かけ、三郎の内縁の妻・阿部マユ(あべ まゆ、当時34歳)と太田家に養子に迎えられる予定であった蓮見幹雄(はすみ みきお、当時6歳)の2人が留守に残り、小豆の選別作業をしていた。 同日の昼、要吉が食事のために帰宅すると、土間の囲炉裏端に幹雄がぽつんと座っていた。 ふざけてたぬき寝入りをしているのだろうと思った要吉は、わざと大声で話しかけながら近づき、幹雄の肩に手をかけてのぞき込んだ。 そのとき、要吉は幹雄の顔下に流れ出た血の塊と、何かで鋭くえぐられた喉元の傷を見つけ驚愕した。 側頭部には親指大の穴があけられ、すでに幹雄は息絶えていた。 要吉は恐怖に震えながらマユを呼んだが何の応答もなく、ただ薄暗い奥の居間から異様な臭気が漂うのみであった。 ただならぬ事態を察した要吉は家を飛び出し、の架橋現場に走った。 駆けつけた村の男たちは、踏み入った太田家の様子に衝撃を受けつつも、これがヒグマの仕業だと知るところとなった。 入口の反対側にあるトウモロコシを干してあった窓は破られ、そこから土間の囲炉裏まで一直線に続くヒグマの足跡が見つかった。 トウモロコシを食べようと窓に近づいたヒグマの姿にマユと幹雄が驚いて声を上げ、これがヒグマを刺激したものと思われた。 足跡が続く居間を調べると、くすぶる薪がいくつか転がり、柄が折れた血染めのまさかりがあった。 ぐるりと回るようなヒグマの足跡は部屋の隅に続き、そこは鮮血に濡れていた。 それは、まさかりや燃える薪を振りかざして抵抗しつつ逃げるマユがついに捕まり、攻撃を受けて重傷を負ったことを示していた。 そこからヒグマはマユを引きずりながら、土間を通って窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユのものとおぼしき数十本の頭髪が絡みついていた。 要吉が幹雄の死に気づいたとき、土間にはまだ温かい蒸し焼きのが転がっていたという。 そのことから、事件が起こってからさほど時間は経っていないと思われた。 また、午前10時半過ぎにの村人が太田家の窓側を通る農道を馬に乗って通り過ぎていた。 彼は家から森に続く何かを引きずった痕跡と血の線に気づいたが、が獲物を山から下ろし太田家で休んでいるものと思い、そのときは特に騒ぎ立てなかった。 これらのことから、事件は午前10時半ごろに起こったと推測された。 事件の一報に村は大騒動となった。 しかし、12月の北海道は陽が傾くのも早く、幹雄の遺体を居間に安置したころには午後3時を過ぎ、この日に打てる手は少なかった。 男達は太田家から500m程の明景安太郎(みようけ やすたろう、当時40歳)の家に集まり、善後策を話し合った。 ヒグマ討伐やマユの遺体奪回は翌日にせざるを得ないが、取り急ぎ苫前村役場と古丹別巡査駐在所、そして幹雄の実家である力昼村 現・力昼 の蓮見家への連絡を取らなければならない。 しかし、通信手段は誰かが直に出向くより他になかった。 太田家の近くに住む男性が使者役に選ばれたが、本人が嫌がったため、代わりに斉藤石五郎(さいとう いしごろう、当時42歳)が引き受けることになった。 太田家よりもさらに上流に家を構える石五郎は、所用にて当主・安太郎が鬼鹿村(現・鬼鹿)へ外出しなければならない。 明景家に妊娠中の妻・タケ(当時34歳)、三男・巌(いわお、当時6歳)、四男・春義(はるよし、当時3歳)の家族3人を避難させ、要吉も男手として同泊する手はずが取られた。 引用 第2の惨劇 そのころ、明景家には明景安太郎の妻・ヤヨ(当時34歳)、長男・力蔵(りきぞう、当時10歳)、次男・勇次郎(ゆうじろう、当時8歳)、長女・ヒサノ(当時6歳)、三男・金蔵(きんぞう、当時3歳)、四男・梅吉(うめきち、当時1歳)の6人と、斉藤家から避難していた妊婦のタケ、巌、春義の3人、そして要吉の合計10人(タケの胎児を含めると11人)がいた。 前日の太田家の騒動を受け、避難した女や子供らは火を焚きつつおびえながら過ごしていた。 護衛は近隣に食事に出かけ、さらに太田家へのヒグマ再出没の報を受けて出動していたため、男手として残っていたのは要吉だけで、主人の安太郎は所用で鬼鹿村へ出かけており不在だった。 太田家から逃れたヒグマは、まさにこの守りのいない状態の明景家に向かっていた。 太田家からヒグマが消えてから20分と経たない午後8時50分ごろ、ヤヨが背中に梅吉を背負いながら討伐隊の夜食を準備していると、地響きとともに窓を破って黒い塊が侵入して来た。 ヤヨは「誰が何したぁ!」と声を上げたが、返ってくる言葉はない。 その正体は、見たこともない巨大なヒグマだった。 かぼちゃを煮る囲炉裏の大鍋がひっくり返されて炎は消え、混乱の中でランプなどの灯りも消え、家の中は暗闇となった。 ヤヨは屋外へ逃げようとしたが、恐怖のためにすがりついてきた勇次郎に足元を取られてよろけてしまう。 そこへヒグマが襲いかかり、背負っていた梅吉に噛みついたあと、3人を手元に引きずり込んでヤヨの頭部をかじった。 だが、直後にヒグマは逃げようと戸口に走っていく要吉に気を取られて母子を離したため、ヤヨはこの隙に勇次郎と梅吉を連れて脱出した。 追われた要吉は物陰に隠れようとしたが、ヒグマの牙を腰のあたりに受けた。 要吉の悲鳴にヒグマは再度攻撃目標を変え、7人が取り残されている屋内に眼を向けた。 ヒグマは金蔵と春義を一撃で撲殺し、さらに巌に噛みついた。 このとき、野菜置き場に隠れていたタケがむしろから顔を出してしまい、それに気づいたヒグマは彼女にも襲いかかった。 居間に引きずり出されたタケは、「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と胎児の命乞いをしたが、上半身から食われ始めた[7]。 川下に向かっていた一行は、激しい物音と絶叫を耳にして急いだ。 そこへ重傷のヤヨと子どもたちがたどり着き、皆は明景家で何が起こっているかを知った。 重傷を負いながらも脱出してきた要吉を保護したあと、男たちは明景家を取り囲んだが、暗闇となった屋内にはうかつに踏み込めない。 中からは、タケと思われる女の断末魔のうめき声、肉を咀嚼し骨を噛み砕く異様な音が響き、熊の暴れまわる鈍い音がした。 一か八か家に火をかける案や、闇雲に一斉射撃しようという意見も出たが、子供達の生存に望みをかけるヤヨが必死に反対した。 一同は二手に分かれ、入り口近くに銃を構えた10名あまりを中心に配置し、残りは家の裏手に回った。 裏手の者が空砲を二発撃つと、ヒグマは入口を破り表で待つ男たちの前に現れた。 先頭の男が撃とうとしたがまたも不発に終わり、他の者も撃ちかねている隙にヒグマは姿を消した。 ガンピ(シラカバの皮)の松明を手に明景家に入った者の目に飛び込んできたのは、飛沫で天井裏まで濡れるほどの血の海、そして無残に食い裂かれたタケ、春義、金蔵の遺体であった。 上半身を食われたタケの腹は破られ胎児が引きずり出されていたが、ヒグマが手を出した様子はなく、そのときには少し動いていたという[8]。 しかし1時間後には死亡した。 力蔵は雑穀俵の影に隠れて難を逃れ、殺戮の一部始終を目撃していた。 ヒサノは失神し、無防備なまま居間で倒れていたが、不思議なことに彼女も無事だった[8]。 急いで力蔵とヒサノを保護し、遺体を収容した一行が家を出たところ、屋内から不意にの声があがった。 帰りの者がひとり中に戻ると、むしろの下に隠されていた重傷の巌を見つけた[注釈 5]。 巌は肩や胸に噛みつかれて傷を負い、左大腿部から臀部は食われて骨だけになっていた。 の全15戸の住民は、にある分教場(その後、小学校になるが廃校)へ避難することになり、重傷者達も3km川下の辻家に収容されて応急の手当てを受けた。 巌は母・タケの惨死を知るすべもないまま、「おっかぁ!クマとってけれ!」とうわ言をもらし、水をしきりに求めつつ20分後に息絶えた。 この2日間で6人、胎児を含めると7人の命が奪われ、3人が重傷を負った。 重傷者たちは翌日さらに3kmの家に移り、古丹別の沢谷医院に入院したのは12日のことだった。 引用 2日間で7名(内、胎児1名)が犠牲に 重症は3名 ヒグマの最期 空が白むのを待ち対岸を調査した一行は、そこにヒグマの足跡と血痕を見つけた。 銃弾を受けていれば動きが鈍るはずと、急いで討伐隊を差し向ける決定が下された。 一行の他に、10日の深夜に話を聞きつけてに入った山本兵吉(やまもと へいきち、当時57歳。 小説『』では山岡銀四郎)という熊撃ちがいた。 鬼鹿村温根(現在の鬼鹿田代)に住む兵吉は、若いころに鯖裂き包丁一本でヒグマを倒し「サバサキの兄(あにい)」と異名を持つ人物で、軍帽との戦利品であるロシア製ライフルを手に数多くの獲物を仕留めた、でも評判が高いだった。 彼が11月に起こった池田家の熊の出没さえ知っていたなら、9日の悲劇も10日の惨劇も起こらなかったものと、誰もが悔しがった。 孫によれば、(兵吉は)時に飲むと荒くなることもあるが、いたって面倒見もよく、優しい面を持ち合わせていたという。 兵吉は討伐隊と別れ、単独で山に入った。 ヒグマは頂上付近での木につ体を休めていた。 その意識はふもとを登る討伐隊に向けられ、兵吉の存在にはまったく気づいていない。 音を立てぬように20mほどにじり寄った兵吉は、ハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構えた。 銃声が響き、一発目の弾はヒグマの心臓近くを撃ちぬいた。 しかしヒグマは怯むことなく立ち上がって兵吉を睨みつけた。 兵吉は即座に次の弾を込め、素早く放たれた二発目は頭部を正確に射抜いた。 12月14日午前10時、轟いた銃声に急ぎ駆けつけた討伐隊が見たものは、村を恐怖の底に叩き落したヒグマの死骸だった。 引用 ヒグマを倒したハンターは、山本兵吉さん ヒグマの特徴 ヒグマは金毛を交えた黒褐色の雄で、重さ340kg、身の丈2. 7mにも及び、胸間から背中にかけて「袈裟懸け」といわれる弓状の白斑を交えた大物であった。 推定7 - 8歳と見られ、頭部の金毛は針のように固く、体に比べ頭部が異常に大きかった。 これほど特徴のある熊を誰も見たことがないという。 隊員たちは怒りや恨みを爆発させ、棒で殴る者、蹴りつけ踏みつける者などさまざまだった。 やがて誰ともなく万歳を叫びだし、討伐隊200人の声がこだました。 終わってみると12日からの3日間で投入された討伐隊員はのべ600人、犬10頭以上、導入された鉄砲は60丁にのぼる未曾有の討伐劇であった。 ヒグマの死骸は人々が引きずって農道まで下ろされ、馬ぞりに積まれた。 しかし馬が暴れて言うことを聞かず、仕方なく大人数でそりを引き始めた。 すると、にわかに空が曇り雪が降り始めた。 事件発生からこの三日間は晴天が続いていたのだが、雪は激しい吹雪に変わりそりを引く一行を激しく打った。 言い伝えによればクマを殺すと空が荒れるという。 この天候急変を、村人たちは「熊風」と呼んで語り継いだ。 引用 8歳ほどのヒグマで全長はなんと約3mにも及ぶ! 猛吹雪に、5kmの下り道を1時間半かけてヒグマの死骸は青年会館に運ばれた。 から来たの夫婦は、「このヒグマは数日前に雨竜で女を食害した獣だ」と語り、証拠に腹から赤い肌着の切れ端が出ると言った。 あるは、「でやはり女を食ったヒグマならば、肉色の脚絆が見つかる」と言った。 山本兵吉は、「このヒグマが天塩での女を食い殺し、三人のに追われていた奴に違いない」と述べた。 解剖が始まり胃を開くと、中から赤い布、肉色の脚絆、そして阿部マユが着用していたぶどう色の脚絆が、絡んだ頭髪とともに見つかり、皆は悲しみをあらわにした。 犠牲者の供養のため肉は煮て食べられたが、硬くて筋が多く、味はよくなかったという。 皮は板貼りされて乾燥させるため長い間さらされた。 その後、肝などとともに50円で売却され、この金は討伐隊から被害者に贈られた。 毛皮や頭蓋骨は消息不明である。 引用 ヒグマの行動について ・火を恐れない 事件発生後、村民は火を焚いてヒグマを避けようとしており、人々が明景家に避難した際[22]や分教場に退避する際に多くの焚火が燃やされたこと[23]が記録されている。 これらの行動は一般に言われる「野生動物は火を怖がる」という風説を信じたものだが、実際は太田・明景両家の襲撃にみられるように、ヒグマは灯火や焚火などに拒否反応を示すことはない。 ・執着心が強い 事件はこの定説を裏づけている。 トウモロコシを何度も狙っている点や、以前に複数の女を食い殺したヒグマがでも女の衣類などに異常な執着を示している点からも確認できる。 また、阿部マユを食害した際に食べ残しを雪に隠したこと、太田家に何度も出没したことなども同じヒグマの特性による。 その一方で、馬への被害は皆無だった。 また、このヒグマは女や幼い男の子の肉の味を覚えてしまったことも原因である。 ・逃げるものを追う 明景ヤヨらがを得た理由は、ヒグマが逃げるオドに気を取られたためである。 このように、たとえ捕食中であってもヒグマは逃避するものを反射的に追ってしまう傾向にある。 ・死んだふりは無意味 明景家の惨劇において、気絶し無防備に横たわる明景ヒサノと、結果的には助からなかったが胎児はヒグマに攻撃されなかった。 これは、ヒグマが動かないものを襲わないというわけではなく、そのときにただ単に他に食べ物があっただけと考えられる。 ほかにも、ヒサノは女だがまだ幼く、ヒグマは大人の女の肉を好んだ可能性もある。 事実、妊婦を襲ってはいるが、胎児は襲わなかった。 ・一度人間の味を覚えた個体は危険 一般に熊は人を恐れ、人を襲うのは突然人間と出会った恐怖心からと言われている。 それを防ぐためには鈴などを鳴らして人間の存在を事前に知らせ鉢合わせする機会を減らせばよいとされる。 だが、人間の無力さと人肉の味を知った熊の個体は、人間を獲物と認識するようになる。 その場合、鈴の音などを鳴らすと獲物の存在を知らせることになり、かえって危険である。 引用 クマを背に逃げると助からない!.

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【慟哭】頭からバリボリと人を食べるクマ~北海道のあの事件や熊本のあの事件など・・・

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三毛別羆事件の流れ いろいろな人物が出てきて結構複雑なんですが、わかりやすいように流れをまとめたので下まで読んでみてください。 3度にわたり熊が姿を現す 事件となった北海道三毛別六線沢は北海道の北部左に位置する集落です。 村人が異変を感じたのは1915年(大正4年)11月。 三度にわたり巨大なヒグマが姿を現します。 その時の被害は特にはなかったが、2人のマタギ(狩人)によりヒグマを撃ってみたものの仕留めるには至らなかった。 時期は冬だったため「熊の体が巨大すぎて冬眠できる穴を見つけられず、食糧を求めて来たのでは?」と彼らは推測しました。 最初の犠牲者は6才の男の子と成人女性だった 旦那さんが仕事のため外で作業していた間、留守にしていた6才の少年 幹雄と34歳の女性 マユが最初の犠牲者となりました。 第一発見者の長松要吉が囲炉裏の端に座っていた幹雄(みきお:犠牲者)を発見。 顔下に付着した血の塊と、喉の傷を見つけ驚いたという。 この時点ですでに死んでいました。 マユの遺体らしきものは発見できなかったが、クマに抵抗した痕跡が残っていた。 柄が折れた血に染まった斧が見つかり、あたりは血の跡があったといいます。 (斧を振りまわして抵抗したと思われる) マユの遺体を発見 村の男達はマユの遺体を見つけるため30人のチームを結成しました。 捜索中にヒグマと遭遇し、銃で発砲したものの結果は出なく、ヒグマは逃走しました。 さらに辺りを捜索したところ、脚と頭部の一部しか残されていないマユの遺体を発見。 幹雄とマユの通夜が営なわれたが、お酒を飲んでいた午後8時半にまたもやヒグマが乱入。 棺桶がひっくり返されたりしたが、犠牲者は出ませんでした。 避難先でさらに犠牲者が出る そして近くの別の家に避難(家には10人)。 その20分後、食事の準備している時に窓を破ってヒグマが侵入してきました。 頭部をかじられつつも逃げ出すことに成功した女性もいたが、妊婦、男性2人の計3人が犠牲になる。 妊婦は「腹破らんでくれ」「のど喰って殺せ」と胎児の命だけは助けようとしたが、上半身から食われてしまいました。 中からは妊婦のうめき声と、肉&骨を噛み砕く音が聞こえていたという。 逃げて助かった村人が家の中に戻ると、肩や胸に傷を負った男児を発見。 (食べられて骨だけになっていた部分もあったという) 彼はしきりに水を求めていたが、20分後に息絶えました。 ヒグマの捕まえた獲物を再度取り戻そうとする習性を利用して、犠牲者の遺体を餌にヒグマをおびき寄せるという作戦が行われました。 しかし、ヒグマは現れたが、家の周りをまわって引き返してしまいました。 (作戦失敗) 救世主が現れる(伝説の猟師 山本 兵吉) この付近には山本兵吉という熊撃ちがいました。 (包丁1本でヒグマを倒したことのある実力者) 彼は三毛別付近に来たところ、この残酷な事件を耳にし、単独で山に入りました。 そして、木につかまり体を休めていたヒグマを発見し、銃を構える。 1発目は心臓部に命中したが、ヒグマは起き上がって兵吉をにらみつけた。 2発目は頭部を貫通したという。 こうして7人を食い殺したヒグマは、命を絶たれました。 ヒグマ殺害後どうなった? ヒグマ捕獲後、解体してみたところ、胃から人間の骨や赤い肌着などが出てきたという。 村人は殺された犠牲者の供養のためにヒグマを調理して食べたそうだが、堅くて筋があり美味しくはなかったでそうです。 そして、生涯で300頭のヒグマを倒した山本兵吉は1950年に92歳で亡くなりました。

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『慟哭の谷――北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』惨劇から100年【ノンフィクションはこれを読め!HONZ】

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事件の経緯 巨大ヒグマの出没 1915年()11月初旬のある夜明け前、の池田家に巨大なヒグマが姿を現した。 飼い馬が驚いて暴れたため、そのときの被害は保存食のとうもろこしに留まった。 村は開拓の端緒にかかったばかりの土地でもあり、このような野生動物の襲来は珍しいものではなかったが、主人である池田富蔵(いけだ とみぞう)はぬかるみに残った足跡の大きさ(約30cm)に懸念を持った。 11月、ふたたびヒグマが現れた。 馬への被害を避けようと、富蔵は在所と隣村から2人のを呼び、3人でることにした。 30日、三度現れたヒグマに撃ちかけたが、仕留めるには至らなかった。 その夜、長男・富吉 (とみきち)や妻に留守を頼み、次男・亀次郎(かめじろう・当時18歳)を加えた4人で鬼鹿山方向へ続く足跡を追い血痕を確認したものの、地吹雪がひどくなりそれ以上の追撃を断念した。 たちは、件のヒグマは「穴持たず」という、何らかの理由により冬眠し損ねたクマであると語った。 さらに足跡の巨大さから「このクマはあまりの巨体のため、自分の身に合う越冬穴を見つけられなかったのではないか」と推測し、「穴持たず」となったクマは非常に凶暴であることを付け加えた。 引用 最初の惨劇 秋から冬にかけ、開拓村では収穫した農作物を出荷するさまざまな作業に追われていた。 のような僻地では、それらの作業は人力に頼らざるを得ず、男達の多くは出払っていた。 12月9日の朝、川上流に居を構える太田家でも、同家に寄宿していた伐採を生業とする長松要吉(ながまつ ようきち、当時59歳。 通称オド)が一足早く仕事に向かい、当主の(おおた さぶろう、当時42歳)も氷橋(すがばし)に用いる桁材を伐り出すため出かけ、三郎の内縁の妻・阿部マユ(あべ まゆ、当時34歳)と太田家に養子に迎えられる予定であった蓮見幹雄(はすみ みきお、当時6歳)の2人が留守に残り、小豆の選別作業をしていた。 同日の昼、要吉が食事のために帰宅すると、土間の囲炉裏端に幹雄がぽつんと座っていた。 ふざけてたぬき寝入りをしているのだろうと思った要吉は、わざと大声で話しかけながら近づき、幹雄の肩に手をかけてのぞき込んだ。 そのとき、要吉は幹雄の顔下に流れ出た血の塊と、何かで鋭くえぐられた喉元の傷を見つけ驚愕した。 側頭部には親指大の穴があけられ、すでに幹雄は息絶えていた。 要吉は恐怖に震えながらマユを呼んだが何の応答もなく、ただ薄暗い奥の居間から異様な臭気が漂うのみであった。 ただならぬ事態を察した要吉は家を飛び出し、の架橋現場に走った。 駆けつけた村の男たちは、踏み入った太田家の様子に衝撃を受けつつも、これがヒグマの仕業だと知るところとなった。 入口の反対側にあるトウモロコシを干してあった窓は破られ、そこから土間の囲炉裏まで一直線に続くヒグマの足跡が見つかった。 トウモロコシを食べようと窓に近づいたヒグマの姿にマユと幹雄が驚いて声を上げ、これがヒグマを刺激したものと思われた。 足跡が続く居間を調べると、くすぶる薪がいくつか転がり、柄が折れた血染めのまさかりがあった。 ぐるりと回るようなヒグマの足跡は部屋の隅に続き、そこは鮮血に濡れていた。 それは、まさかりや燃える薪を振りかざして抵抗しつつ逃げるマユがついに捕まり、攻撃を受けて重傷を負ったことを示していた。 そこからヒグマはマユを引きずりながら、土間を通って窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユのものとおぼしき数十本の頭髪が絡みついていた。 要吉が幹雄の死に気づいたとき、土間にはまだ温かい蒸し焼きのが転がっていたという。 そのことから、事件が起こってからさほど時間は経っていないと思われた。 また、午前10時半過ぎにの村人が太田家の窓側を通る農道を馬に乗って通り過ぎていた。 彼は家から森に続く何かを引きずった痕跡と血の線に気づいたが、が獲物を山から下ろし太田家で休んでいるものと思い、そのときは特に騒ぎ立てなかった。 これらのことから、事件は午前10時半ごろに起こったと推測された。 事件の一報に村は大騒動となった。 しかし、12月の北海道は陽が傾くのも早く、幹雄の遺体を居間に安置したころには午後3時を過ぎ、この日に打てる手は少なかった。 男達は太田家から500m程の明景安太郎(みようけ やすたろう、当時40歳)の家に集まり、善後策を話し合った。 ヒグマ討伐やマユの遺体奪回は翌日にせざるを得ないが、取り急ぎ苫前村役場と古丹別巡査駐在所、そして幹雄の実家である力昼村 現・力昼 の蓮見家への連絡を取らなければならない。 しかし、通信手段は誰かが直に出向くより他になかった。 太田家の近くに住む男性が使者役に選ばれたが、本人が嫌がったため、代わりに斉藤石五郎(さいとう いしごろう、当時42歳)が引き受けることになった。 太田家よりもさらに上流に家を構える石五郎は、所用にて当主・安太郎が鬼鹿村(現・鬼鹿)へ外出しなければならない。 明景家に妊娠中の妻・タケ(当時34歳)、三男・巌(いわお、当時6歳)、四男・春義(はるよし、当時3歳)の家族3人を避難させ、要吉も男手として同泊する手はずが取られた。 引用 第2の惨劇 そのころ、明景家には明景安太郎の妻・ヤヨ(当時34歳)、長男・力蔵(りきぞう、当時10歳)、次男・勇次郎(ゆうじろう、当時8歳)、長女・ヒサノ(当時6歳)、三男・金蔵(きんぞう、当時3歳)、四男・梅吉(うめきち、当時1歳)の6人と、斉藤家から避難していた妊婦のタケ、巌、春義の3人、そして要吉の合計10人(タケの胎児を含めると11人)がいた。 前日の太田家の騒動を受け、避難した女や子供らは火を焚きつつおびえながら過ごしていた。 護衛は近隣に食事に出かけ、さらに太田家へのヒグマ再出没の報を受けて出動していたため、男手として残っていたのは要吉だけで、主人の安太郎は所用で鬼鹿村へ出かけており不在だった。 太田家から逃れたヒグマは、まさにこの守りのいない状態の明景家に向かっていた。 太田家からヒグマが消えてから20分と経たない午後8時50分ごろ、ヤヨが背中に梅吉を背負いながら討伐隊の夜食を準備していると、地響きとともに窓を破って黒い塊が侵入して来た。 ヤヨは「誰が何したぁ!」と声を上げたが、返ってくる言葉はない。 その正体は、見たこともない巨大なヒグマだった。 かぼちゃを煮る囲炉裏の大鍋がひっくり返されて炎は消え、混乱の中でランプなどの灯りも消え、家の中は暗闇となった。 ヤヨは屋外へ逃げようとしたが、恐怖のためにすがりついてきた勇次郎に足元を取られてよろけてしまう。 そこへヒグマが襲いかかり、背負っていた梅吉に噛みついたあと、3人を手元に引きずり込んでヤヨの頭部をかじった。 だが、直後にヒグマは逃げようと戸口に走っていく要吉に気を取られて母子を離したため、ヤヨはこの隙に勇次郎と梅吉を連れて脱出した。 追われた要吉は物陰に隠れようとしたが、ヒグマの牙を腰のあたりに受けた。 要吉の悲鳴にヒグマは再度攻撃目標を変え、7人が取り残されている屋内に眼を向けた。 ヒグマは金蔵と春義を一撃で撲殺し、さらに巌に噛みついた。 このとき、野菜置き場に隠れていたタケがむしろから顔を出してしまい、それに気づいたヒグマは彼女にも襲いかかった。 居間に引きずり出されたタケは、「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と胎児の命乞いをしたが、上半身から食われ始めた[7]。 川下に向かっていた一行は、激しい物音と絶叫を耳にして急いだ。 そこへ重傷のヤヨと子どもたちがたどり着き、皆は明景家で何が起こっているかを知った。 重傷を負いながらも脱出してきた要吉を保護したあと、男たちは明景家を取り囲んだが、暗闇となった屋内にはうかつに踏み込めない。 中からは、タケと思われる女の断末魔のうめき声、肉を咀嚼し骨を噛み砕く異様な音が響き、熊の暴れまわる鈍い音がした。 一か八か家に火をかける案や、闇雲に一斉射撃しようという意見も出たが、子供達の生存に望みをかけるヤヨが必死に反対した。 一同は二手に分かれ、入り口近くに銃を構えた10名あまりを中心に配置し、残りは家の裏手に回った。 裏手の者が空砲を二発撃つと、ヒグマは入口を破り表で待つ男たちの前に現れた。 先頭の男が撃とうとしたがまたも不発に終わり、他の者も撃ちかねている隙にヒグマは姿を消した。 ガンピ(シラカバの皮)の松明を手に明景家に入った者の目に飛び込んできたのは、飛沫で天井裏まで濡れるほどの血の海、そして無残に食い裂かれたタケ、春義、金蔵の遺体であった。 上半身を食われたタケの腹は破られ胎児が引きずり出されていたが、ヒグマが手を出した様子はなく、そのときには少し動いていたという[8]。 しかし1時間後には死亡した。 力蔵は雑穀俵の影に隠れて難を逃れ、殺戮の一部始終を目撃していた。 ヒサノは失神し、無防備なまま居間で倒れていたが、不思議なことに彼女も無事だった[8]。 急いで力蔵とヒサノを保護し、遺体を収容した一行が家を出たところ、屋内から不意にの声があがった。 帰りの者がひとり中に戻ると、むしろの下に隠されていた重傷の巌を見つけた[注釈 5]。 巌は肩や胸に噛みつかれて傷を負い、左大腿部から臀部は食われて骨だけになっていた。 の全15戸の住民は、にある分教場(その後、小学校になるが廃校)へ避難することになり、重傷者達も3km川下の辻家に収容されて応急の手当てを受けた。 巌は母・タケの惨死を知るすべもないまま、「おっかぁ!クマとってけれ!」とうわ言をもらし、水をしきりに求めつつ20分後に息絶えた。 この2日間で6人、胎児を含めると7人の命が奪われ、3人が重傷を負った。 重傷者たちは翌日さらに3kmの家に移り、古丹別の沢谷医院に入院したのは12日のことだった。 引用 2日間で7名(内、胎児1名)が犠牲に 重症は3名 ヒグマの最期 空が白むのを待ち対岸を調査した一行は、そこにヒグマの足跡と血痕を見つけた。 銃弾を受けていれば動きが鈍るはずと、急いで討伐隊を差し向ける決定が下された。 一行の他に、10日の深夜に話を聞きつけてに入った山本兵吉(やまもと へいきち、当時57歳。 小説『』では山岡銀四郎)という熊撃ちがいた。 鬼鹿村温根(現在の鬼鹿田代)に住む兵吉は、若いころに鯖裂き包丁一本でヒグマを倒し「サバサキの兄(あにい)」と異名を持つ人物で、軍帽との戦利品であるロシア製ライフルを手に数多くの獲物を仕留めた、でも評判が高いだった。 彼が11月に起こった池田家の熊の出没さえ知っていたなら、9日の悲劇も10日の惨劇も起こらなかったものと、誰もが悔しがった。 孫によれば、(兵吉は)時に飲むと荒くなることもあるが、いたって面倒見もよく、優しい面を持ち合わせていたという。 兵吉は討伐隊と別れ、単独で山に入った。 ヒグマは頂上付近での木につ体を休めていた。 その意識はふもとを登る討伐隊に向けられ、兵吉の存在にはまったく気づいていない。 音を立てぬように20mほどにじり寄った兵吉は、ハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構えた。 銃声が響き、一発目の弾はヒグマの心臓近くを撃ちぬいた。 しかしヒグマは怯むことなく立ち上がって兵吉を睨みつけた。 兵吉は即座に次の弾を込め、素早く放たれた二発目は頭部を正確に射抜いた。 12月14日午前10時、轟いた銃声に急ぎ駆けつけた討伐隊が見たものは、村を恐怖の底に叩き落したヒグマの死骸だった。 引用 ヒグマを倒したハンターは、山本兵吉さん ヒグマの特徴 ヒグマは金毛を交えた黒褐色の雄で、重さ340kg、身の丈2. 7mにも及び、胸間から背中にかけて「袈裟懸け」といわれる弓状の白斑を交えた大物であった。 推定7 - 8歳と見られ、頭部の金毛は針のように固く、体に比べ頭部が異常に大きかった。 これほど特徴のある熊を誰も見たことがないという。 隊員たちは怒りや恨みを爆発させ、棒で殴る者、蹴りつけ踏みつける者などさまざまだった。 やがて誰ともなく万歳を叫びだし、討伐隊200人の声がこだました。 終わってみると12日からの3日間で投入された討伐隊員はのべ600人、犬10頭以上、導入された鉄砲は60丁にのぼる未曾有の討伐劇であった。 ヒグマの死骸は人々が引きずって農道まで下ろされ、馬ぞりに積まれた。 しかし馬が暴れて言うことを聞かず、仕方なく大人数でそりを引き始めた。 すると、にわかに空が曇り雪が降り始めた。 事件発生からこの三日間は晴天が続いていたのだが、雪は激しい吹雪に変わりそりを引く一行を激しく打った。 言い伝えによればクマを殺すと空が荒れるという。 この天候急変を、村人たちは「熊風」と呼んで語り継いだ。 引用 8歳ほどのヒグマで全長はなんと約3mにも及ぶ! 猛吹雪に、5kmの下り道を1時間半かけてヒグマの死骸は青年会館に運ばれた。 から来たの夫婦は、「このヒグマは数日前に雨竜で女を食害した獣だ」と語り、証拠に腹から赤い肌着の切れ端が出ると言った。 あるは、「でやはり女を食ったヒグマならば、肉色の脚絆が見つかる」と言った。 山本兵吉は、「このヒグマが天塩での女を食い殺し、三人のに追われていた奴に違いない」と述べた。 解剖が始まり胃を開くと、中から赤い布、肉色の脚絆、そして阿部マユが着用していたぶどう色の脚絆が、絡んだ頭髪とともに見つかり、皆は悲しみをあらわにした。 犠牲者の供養のため肉は煮て食べられたが、硬くて筋が多く、味はよくなかったという。 皮は板貼りされて乾燥させるため長い間さらされた。 その後、肝などとともに50円で売却され、この金は討伐隊から被害者に贈られた。 毛皮や頭蓋骨は消息不明である。 引用 ヒグマの行動について ・火を恐れない 事件発生後、村民は火を焚いてヒグマを避けようとしており、人々が明景家に避難した際[22]や分教場に退避する際に多くの焚火が燃やされたこと[23]が記録されている。 これらの行動は一般に言われる「野生動物は火を怖がる」という風説を信じたものだが、実際は太田・明景両家の襲撃にみられるように、ヒグマは灯火や焚火などに拒否反応を示すことはない。 ・執着心が強い 事件はこの定説を裏づけている。 トウモロコシを何度も狙っている点や、以前に複数の女を食い殺したヒグマがでも女の衣類などに異常な執着を示している点からも確認できる。 また、阿部マユを食害した際に食べ残しを雪に隠したこと、太田家に何度も出没したことなども同じヒグマの特性による。 その一方で、馬への被害は皆無だった。 また、このヒグマは女や幼い男の子の肉の味を覚えてしまったことも原因である。 ・逃げるものを追う 明景ヤヨらがを得た理由は、ヒグマが逃げるオドに気を取られたためである。 このように、たとえ捕食中であってもヒグマは逃避するものを反射的に追ってしまう傾向にある。 ・死んだふりは無意味 明景家の惨劇において、気絶し無防備に横たわる明景ヒサノと、結果的には助からなかったが胎児はヒグマに攻撃されなかった。 これは、ヒグマが動かないものを襲わないというわけではなく、そのときにただ単に他に食べ物があっただけと考えられる。 ほかにも、ヒサノは女だがまだ幼く、ヒグマは大人の女の肉を好んだ可能性もある。 事実、妊婦を襲ってはいるが、胎児は襲わなかった。 ・一度人間の味を覚えた個体は危険 一般に熊は人を恐れ、人を襲うのは突然人間と出会った恐怖心からと言われている。 それを防ぐためには鈴などを鳴らして人間の存在を事前に知らせ鉢合わせする機会を減らせばよいとされる。 だが、人間の無力さと人肉の味を知った熊の個体は、人間を獲物と認識するようになる。 その場合、鈴の音などを鳴らすと獲物の存在を知らせることになり、かえって危険である。 引用 クマを背に逃げると助からない!.

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