セメント マッチ。 世?虎は「通り魔型」 過去にもあったプロレス凄惨試合

橋本VS小川(99年1月4日東京ドーム)はなぜセメントマッチとなったのか その1|相磯哲也 │ WEBマーケするファンドレイザー|note

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略歴 [ ] 1957年(昭和32年)5月24日、に生まれる。 文学部英文学科に入学、在学中に学生映画の監督として活動、1980年(昭和55年)に自ら製作、監督を務めた45分の短編「休暇の前提」を発表した。 大学を卒業後、にっかつ(現在の)に入社し、「」の助監督として、、、に師事したほか、プロデューサーとしても活動した。 1988年に『ベッド・パートナー』で監督デビュー。 ズーム・アップ映画祭で新人監督賞を受賞するが、この作品が「にっかつロマンポルノ」にとって最後の作品となった。 その後活動の場をへと移し、「のぞき屋稼業」シリーズ、「ゴト師株式会社」シリーズ(主演)、「」シリーズなど、話題性のある作品において、監督、脚本を務める。 1995年(平成7年)、原作、出演の「82」でエロティック・アクション映画の分野に新境地を切り開く。 1996年(平成8年)、原作、出演のバイオレンス・アクション映画「」を監督。 1997年(平成9年)、、出演の日米合作映画「」で、デビューを果たした。 その後、活躍の場をに移し、『 ()』、『 ()』(原題『夜明けの牛』)、『 ()』(原題『ブラインド・ラブ』)など、小品ながら作家性の強い作品を意欲的に発表する。 『夜明けの牛』は「日本映画考」で特別上映されたほか、 A Lonely Cow Weeps At Dawn の英題で 、2008年9月にアメリカで行われたオースティン・ファンタスティック映画祭にて上映された。 また2009年6月には、『ブラインド・ラブ』がニューヨーク・アジア映画祭で上映されたほか 、2010年6月には『夜明けの牛』と『ブラインド・ラブ』が、セクシー国際映画祭(パリ)にて上映された。 フィルモグラフィ [ ] 監督 [ ]• 「休暇の前提」(1980 早大映像工房) - 製作・ 監督・脚本• 「ベッド・パートナー Bed Partner」 1988 撮影所) - 監督(監督昇進第1作)• 「のぞき屋稼業」 1993 ココナッツボーイ・プロジェクト• 「のぞき屋稼業2」 1993 ココナッツボーイ・プロジェクト) - 監督・脚本• 「のぞき屋稼業3」 1994 ココナッツボーイ・プロジェクト) - 監督・脚本• 「III」 1994 ビデオチャチャンプ==パル企画) - 監督・脚本• 「 II 警視庁0課の女」 1995 マクザム) - 監督・脚本• 「ゴト師株式会社スペシャル 警視庁防犯課第5104号事件」 1995 ゴト師製作委員会• 「82」 1995 ワニブックス=ビジョンスギモト) - 監督・脚本• 「」 1996 ギャガ・コミュニケーションズ• 「 名前のない女」 1997 マクザム• 「」 1997年、 ワニブックス=ビジョンスギモト)• 「パチプロ覇王 炎の大連チャン」 1999年、 ケイエスエス) - 監督・脚本• 『 ()』 2001年、=セメントマッチ=光の帝国) - 監督・脚本• 「」 2001年、 アイディーディー=ジャミス) - 監督・脚本• 「OL発情 奪う! 」 2002年、 新東宝) - 監督・脚本• 『 ()』(英題 A Lonely Cow Weeps At Dawn, 原題『夜明けの牛』、2003年、 新東宝=セメントマッチ) - 監督・脚本• 「夫婦交換前夜 私の妻とあなたの奥さん」 2004年、 新東宝=セメントマッチ) - 監督・脚本• 『 ()』(原題『ブラインド・ラブ』、2006年、) - 監督・脚本• 「新」 2008 =新東宝) - 監督・脚本• 熟妻と愛人 絶妙すけべ舌(2012年9月公開)• 『牝と淫獣 お尻でクラクラ』(2019年3月29日公開)監督・脚本• 「かまきり兄嫁 かぶりつき」 (1989 フィルムキッズ) - 脚本• 「天使が僕に恋をした」 2002 多呂プロ) - 脚本• 「濡れ続けた女 吸いつく下半身」 2008 新東宝) - 脚本• 「サソリ 女囚701号」 1998 ビジョンスギモト) - 脚本• 「サソリ 殺す天使」 1998 ビジョンスギモト) - 脚本 製作 [ ]• 「制服くずし」 (1987 にっかつ撮影所) - 製作• 「ON THE BOAT」 2003 ON THE BOAT製作委員会) - 製作 脚注 [ ] []•

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証言1.4 小川vs橋本 20年目の真実

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シューティング・サイン シュート(:shoot) アメリカで誕生したであり、カーニバル()のにその由来がある。 シュートを表すであるとを立てたは「 シュート・サイン」、または「 シューティング・サイン」と呼ばれ、即ちを模したものである。 日本のプロレス界でも後半からにかけてこの用語が使われ始め、真剣勝負を意味するガチンコやセメントとの類語・同意語として広く普及した。 なお、シュートを行う(の)を「 シューター」と呼ぶ。 かつてが「キレると何をするかわからない」という悪癖から稀代のシューターとしてレスラーの間で恐れられていた。 用語の使い分けとしては、試合内容についてはガチンコ、リング外での本気の仕掛けをシュートと呼ぶ場面がしばしば見られるが、明確には使い分けられていない。 アメリカではリング内外どちらもシュートと表現する。 語句としては「シュートマッチ(セメントマッチ)」「シュート(セメント)を仕掛ける」などが一般的用法である。 ピストル では と呼ぶのが一般的である。 これは創始者であるが提唱したものである。 概要 [ ] 相撲 [ ] 近代において相撲はスポーツであり、での取り組みはすべて真剣勝負、つまりガチンコであることが建前上は当然とみなされている。 これに対して、地方などの本場所以外でのではあえてガチンコをとらず、ともとれる取り組みや地元出身力士に花を持たせるような取り組みが度々行われている。 これは花相撲が興行的な側面が強いイベントであり勝敗も番付に影響しないこと、相撲がもともと過酷な格闘技であること、などの理由がある。 昭和前期のには「花相撲で部屋のであるに勝って師匠に怒られた」という逸話がある。 この節のが望まれています。 プロレス [ ] 1920年代にらが「トラスト」と呼ばれるプロレスラーの組合を結成して以降、プロレスはと呼ばれる事前の打ち合わせに基づいて試合が行われるようになった。 しかしながら選手間の人間関係の悪化などの理由により、しばしばその打ち合わせを無視して試合が進行する場合がある。 このような試合をガチンコやシュートと呼ぶ。 この隠語の発祥の地であるアメリカでは、リング内の真剣勝負のみならず、リング外でのストーリー破りもシュートと呼んでいる。 また、レスラーは試合をファンによる乱入により妨害された場合には、乱入者に容赦ない攻撃を加えることがあるが、アメリカではこれもシュートと呼ばれる。 日本ではリング内はガチンコ、リング外はシュートと呼んでいたが、リング内での真剣勝負もシュートと呼ばれる機会が増えている。 シュートは選手の格やマッチメイカーによって試合の勝敗をあらかじめ決めることなく、両者の実力によって決着を着ける意としても使用されることがあり、が創設したである及び立ち技格闘技のの由来となっている。 「女子プロレス終わらない夢 全日本女子プロレス元会長 松永高司」によると全女の試合は基本的にシュート(ピストル)で行われていた。 また、も「」146号誌上において「タイトル戦はシュートだった」と語っている。 プロレスにおける実力主義についてはも参照。 ただし、シュートという概念はそれ自体がとして用いられることもあり、上記の試合についてそのような見方をする人も少なくない。 このアングルをあたかもシュートであるかのように見せる手法は、海外では「 ワークド・シュート( Worked shoot)」と呼ばれストーリーを盛り上げる演出としてポピュラーなもののひとつである。 有名なシュート事件 [ ] セメントマッチ [ ] 1925年のウェイン・マンvsスタニスラウス・ズビスコ 「マッチメイク破り」としては史上最古の例と伝わる。 マンが勝つ筋書きになっていたところズビスコが「ブック破り」を行い、シュートの実力で劣るマンを一方的に攻め、フォールしてしまった。 の世界タイトルマッチの体で行われた試合での出来事であったためズビスコは関係者から危険人物とみなされるようになったが、一方で事情を知らない一般のファンからは多大な人気を集めた。 この反省を活かして旧NWAはシュートに対応できる実力者を王者にするようになったと言われている。 1954年12月22日の対 詳細は「」を参照 当時の世界ヘビー級王者であったモハメド・アリが「俺に挑戦する奴はいないのか。 相手はレスラーでも誰でもいい」というリップサービスを行い、それに猪木が呼応したことに端を発する。 後日実現した試合では双方が終始相手のスタイルに付き合わず、「世紀の凡戦」と痛烈な酷評を浴びた。 しかし近年になって、事前に交わされた契約交渉の段階から既に激しい摩擦があったことが関係者の口から明らかになっている。 また、試合中猪木に執拗に脚部を蹴り続けられたアリはを発症、帰国後治療のため入院を余儀なくされた。 結果としてこの対戦によって猪木は『モハメド・アリと闘った男』という世界的な知名度は得たものの、多額の負債を背負うことになり、アリは前述の血栓症が原因ともいわれる体調不良からスケジュールを狂わせるなど、両者共に決して実り多きものとはならなかった。 1976年8月7日、VS 新日本プロレスのブラジル遠征で行われたこの一戦はセメント試合に発展し戦と化する。 同年の2月にアントニオ猪木と激闘の末、敗れたルスカは再戦を迫っているという体裁で新日本のブラジル遠征に参加。 遠征初日の市に約7000人の大観衆を集めた大会。 メーンでのカードとしてそこで組まれたのがこの一戦。 ゴメスはもとはからグレイシー柔術を学び、1974年12月に新日本がブラジル遠征した際に王者と称して新日本に接触を試みる。 お互いのやに関し、自分らと違う技があること、知らない技があることに興味を持ち、猪木に弟子入りをするかたちで同年から約2年間、というかたちで新日本でプロレス修行を積み、ブラジルでバーリトゥード王者に君臨。 当時バーリトゥードはレスリングや柔術をベースにして素手で戦う実戦的格闘技を称していた。 などにより知られる前は専門誌でも「バリツーズ」などと表記されていた ルスカが後年この試合に触れたときは3分程度でKO勝ちしたとの認識も加味して意外にも印象が薄かったらしく、うろ覚えのようだった。 また試合に先立ちアントニオ猪木からはできれば試合時間を長くしたほうがよいというアドバイスを受け、じっくりといくつもりであったようである。 しかしのっけからのゴメスのパンチ攻撃に、ルスカがそういうことかと顔面に右ストレートを叩き込みはじめる大荒れの様相となる。 そのルスカのゴメスへの顔面への鉄拳攻撃で、ゴメスが右目尻から大流血。 ゴメスが寝技にもちこみルスカをフロントネックロックで捕らえるが、ルスカもゴメスの体に乗っかる。 かくしてプロレス興行の場で、柔道出身者対柔術出身者のバーリトゥード形式での異種格闘技戦となった。 結局エプロンサイドでゴメスがルスカの背後に回ってスリーパーをかけ、そのままゴメスがサイドでルスカの首をずっと絞め続けた。 このため、9分03秒でエプロンカウントアウトの裁定が下された。 体がリングから出ていたことでゴメスのエプロン位置における10カウントでの負けと判定されたのである。 ただしこれはもっぱらレフェリーが壮絶な試合を終わらせるための処置だとされている。 地元の英雄の敗退とプロレス流の不可解な裁定に観衆は激怒していたが、納得のいかないゴメスと観客を猪木が入ってきて収めている。 この結果リオデジャネイロ市体育協会が、レフェリーを務めたミスター高橋とルスカに対し「ブラジル国内でのあらゆるスポーツに永久出場停止」という処分を下したとされる。 なおゴメスは9針を縫う重傷を負っている。 一方のルスカはこの後猪木からポケットマネーの小遣いまで支給され、観光旅行を楽しんだという。 白夜ムック「マット界スキャンダル『機密文書』」(白夜書房、2005年 )では、ライターの渋澤恵介はルスカの優勢勝ちといった内容だったとし、注釈で「そのまま試合が続けばダメージが大きいゴメスをルスカが破った可能性が高い」と記している。 月刊プロレス 1976年10月号 によると、遠征ではこのほか2大会が行われ、ゴメスにはその後、と対戦。 いずれもどうしても勝ちたいゴメスはセメントを仕掛け勝利している。 1976年10月9日のアントニオ猪木対 詳細は「」を参照 1976年12月12日のアントニオ猪木対 アントニオ猪木が行った遠征(前述のアリ戦で背負った多額の負債返済のためといわれている)で起きた、当地で英雄と称えられていたレスラー、アクラム・ペールワンとの対戦とそれに纏わる事件。 全くのノールール・マッチであったとされ、それについては当時猪木に同行したやなど複数の関係者が明言している。 なお、この「ノールール勧告」は試合の数時間前に初めてペールワン陣営から突き付けられたという。 単なる海外でのプロレス興行と思い込んでいた猪木陣営にとっては、この一方的な「潰し予告」ともいえる要求は全く不測の事態だった。 試合は両者が噛み付きや目突き(ペールワンは片目を失明したといわれている)などを応酬する凄惨なものになり、最終的には猪木がペールワンの腕をで脱臼させ勝利を収めた。 勝利の瞬間、猪木は「折ったぞー! 」と雄叫びをあげ、リング上でもみ合う両陣営の関係者を押しのけるように両腕を高々と振り上げた。 このことについてミスター高橋は自著の中で「リング上で叫ぶ猪木の表情は、すでに正気のものではなかった」と述懐している。 また、猪木のセコンドについていた藤原の弁によれば、ペールワンの勝利を信じて熱狂的な声援を送っていた観衆が一気に静まり返るのを感じ「もう俺たちは日本に帰れない」と絶望さえ覚えたという。 猪木本人は興奮のあまりほとんど記憶がないとのことだが、ふと我に帰った瞬間を携えた兵士の姿が目に入り、急に恐ろしくなったと『』内の談話で述べている。 試合後の猪木は憔悴しきった様子で「あいつ、(アームロックが極まっても)参ったしないから…」と語り、終始表情は曇ったままであった。 なお猪木は引退後、この試合が収録されたDVDの中で当時のことを解説している。 ペールワンの腕を脱臼させたことについては、「僕はレフェリーに『折れるぞ。 試合は終わりだ』と言ったんですが試合を止めないし、相手(ペールワン)もギブアップしない。 それで思い切って力を入れたら、腕がバキバキと音を立てて折れてしまった」と述べており、あくまで事態を終息させるための最終手段だったという。 その一方でペールワンに仕掛けた目突きのように見える行為は「フェイスロックを極める際の流れがそう見えるだけで、反則(目突き)ではない」としている。 この試合の結末が影響してか、ペールワンの兄であるアスラムと猪木が対戦する予定だった第2戦は中止になった。 1986年4月29日の対 第一次の崩壊後に復帰した前田と、アンドレの対戦で起こったシュートマッチ。 試合開始からアンドレは全くプロレスに付き合わず、前田がタックルに来ると巨体を被せて押し潰そうとした。 その様子に異変を感じた前田は試合途中から距離をとっての打撃に終始。 この時点で前田はアンドレのセコンドに付いていたに「若松さん、(アンドレに止めるよう)言ってくださいよ」と言っていたといわれている。 前田は自著『パワー・オブ・ドリーム』()で当時の状況を記しており、それによれば前田がセコンドに付いていたに「本当にやりますよ。 いいんですか」と尋ねたところ、星野は困惑した様子で「俺に訊くなよ」と答えたという。 異様な膠着状態が続く中、観客からブーイングが起こり始め、リングサイドには試合に関係のない猪木が現れる。 リング中央から動かないアンドレに対し、前田は膝頭に危険な蹴りを連発。 最終的にアンドレはリングに寝転がったまま起き上がらなくなり、戦意喪失とみなされ試合終了。 困惑した前田がセコンドに対し事情の説明を求めるという不可解な結末に終わった。 前述の前田の自著には、アンドレはマット上に寝転んだ後に制するかのように両手を広げながら「It Is Not My Business」 俺が仕組んだことじゃない と言ったという記述がある。 シュートマッチ強行への経緯については諸説あり、当時の関係者の証言も断片的なものに留まり、また当事者のアンドレが故人となった現在では真相は不明。 当時マッチメイクを担当していたも自著の中で、特に新日サイドから指示されたことはなく、試合後もアンドレは何も答えてくれず、困惑するしかなかったと当時の胸中を明かしている。 この試合について見解を表明しているのは当事者の一人である前田と、新日サイド側では現時点に於いての唯一の証言者であるのみと非常に少ない。 前田は「新日サイドによる組織的な『潰し』」という説を唱えており、対して高橋は「、特に攻撃を嫌悪していたアンドレが個人的感情から起こした行動」としている。 アンドレも晩年、この試合について「前田はキックが好きだと聞いていた。 だから好きなだけ蹴らせてやっただけさ」という旨の発言を残しており、何らかの思惑があったことを示唆している。 なお、この試合の様子はテレビ収録大会にもかかわらず、後日、全国ネットで放映された録画中継で、この試合のみが何の説明さえもなく放送されなかったことから『内容が危険であるという理由で放送されなかった』のではないかとファンの間で噂されていた。 しかし、テレビ朝日の関係者によれば当時のスタッフから「試合が成立しておらず、つまらない」という声があり セメントとわかってなかった? 、放映するコンテンツとして品質不足と判断されたためだという。 その一方で、この試合の翌日に発行されたは、試合の一部始終を詳報。 1面トップかつ写真入りで大きく扱った。 「大巨人、ナゾの試合拒否」などの見出しを付け、この試合を「異常事態」と捉えた報道になっていた。 1987年7月18日の対 でプロレスデビュー間もない頃の神取忍が、同団体のエース格だったジャッキー佐藤との試合でシュートを仕掛けた。 諸説あるが、両者の意見の食い違いが主な原因とされている。 なお、この試合前に神取は「今日はジャッキーさんを30秒で倒す」「あっという間に終わらせたらお客さんに申し訳ないから、初めの5分はジャッキーさんに合わせる。 だから5分30秒かな」とシュート予告ともとれる発言をしていた。 試合開始から数分後、神取が突然ジャッキーの顔面を次々と殴打し始め、ジャッキーは防戦一方に陥る。 この際、異変に気付いたリングサイドのレスラーたちから「神取、何をやってるんだ」「やめろ」と怒声が上がったという。 さらに神取は戦意喪失状態のジャッキーをやなどで執拗に攻め立て、最後はでを奪った。 なお、これはジャッキーが喫した生涯唯一のギブアップ負けである。 後に神取はこの際のことを「関節技は全部本気で極めにいった」と明言している。 試合終了後のジャッキーの顔面は無残に腫れ上がり、極められた腕は脱臼していた。 ジャッキーはこの試合から程なくして引退しており、神取戦における惨敗が要因のひとつという評もある。 後年、神取はインタビュー内でこの試合について「ジャッキーさんの心を折るために仕掛けた」と語る一方、喧嘩マッチとして語り継がれていることに関しては「あの試合は喧嘩じゃない」と述べている。 また、最盛期のジャッキーを知る北斗晶は恐ろしい性格であるジャッキーを恐怖に追い込んだ神取は相当強いと感じたそうである。 1991年4月1日の対 神戸大会で北尾が全くテンタと手を合わせようとせず、目潰しの構えをとるなどして威嚇した事件。 結果としては何事も起きず未遂に終わっている(裁定は北尾の反則負け)。 だがその直後に解説席のマイクを奪った北尾が「この八百長野郎! 八百長ばっかりやりやがって」「お前ら、こんな試合見て面白いのか! 」と暴言を発した。 この発言を翌日のスポーツ紙は問題視する形で報道、すぐにプロレス業界全体を巻き込む大問題へと発展した。 この試合の2日前(同年3月30日)にも北尾とテンタは東京ドーム大会でのシングルマッチで対戦しているが、北尾はフォール負けし、自身の試合が終わると、大会の全カード終了を待たずして会場から去ってしまう事件を起こしている。 「八百長」事件後の一部週刊誌では、この試合で、相撲時代の番付では遥かに上だった自分が、テンタ相手に「負け役」をやらされたという不満が募っていた事も事件の引き金になったのではないかと指摘されている。 北尾本人は神戸大会の試合直後、周囲に対し満足気な態度で「どうだ、盛り上がっただろう? 」と話しているなど、重大なトラブルを引き起こしたとは思っていなかった様子だが、プロレス界全体を巻き込んだ影響の大きさから、北尾はこの試合を最後にSWSを解雇されている。 この事件から数年後にで再戦が行われたが、に転向していた(当時にも参戦している)北尾は終始いきり立った様子で試合を進め、格闘技然とした展開となってしまい呆気ない幕切れとなった。 1993年の対 当時団体のキャラクター路線で一定の人気を得ていたLLPW(現:)で宝塚風のキャラクターで再デビュー戦となったジェンヌゆかりに対し遠藤が試合途中からシュートを仕掛け一方的にジェンヌを蹴り上げる事態に発展、明らかにジェンヌに戦意損失の意思が見えても遠藤の攻撃は収まらず完勝に終わる。 遠藤が日頃から団体のエンターテイメント路線に反発していたのに対し、同じ格闘技路線のジェンヌがキャラクターレスラーに転向する意向を受け入れた事による制裁と思われる。 しかもこの企画はテレビ番組のコラボレーションで作られた事により、当日セコンドに立っていた番組出演者と遠藤が一触即発となる事態となってしまった。 1993年の対(、 詳細は「」を参照 この試合は初めからシュートと公言していたせいかセメントマッチの中でも女子プロレス史における伝説の名勝負となった珍しい例である。 1999年1月4日の対 ライバル抗争を繰り広げられていた橋本真也に対し、小川直也が執拗な顔面へのパンチ(プロレスで顔面パンチは反則行為である)や、倒れた橋本の頭部を思い切り踏みつけるなどの攻撃を繰り返した試合。 橋本も小川に対して反則技であるへの攻撃を仕掛けるなど報復を行った。 一方的に攻撃を受け続けた橋本はKO(裁定は無効試合)され、直後に小川が挑発的な言動を行ったことから場内は騒然となった。 これにより試合後、両選手のセコンド同士による大規模な乱闘が発生。 小川のセコンドをしていたは、に顔面を踏まれ一時昏睡状態に陥るほどの大怪我を負う。 さらに事態は紛糾し、当時の現場監督のが小川に詰め寄り怒声を上げる姿がテレビで放映された。 この際に長州は小川に対して「これ シュートで橋本を潰す行為 がお前のやり方か! 」と繰り返した。 また、橋本がKOされた際にゴングを鳴らしたのはリングアナのの独断によるものである(「何とか収拾を付けたかった」と本人が後に語っている)。 なお橋本は試合後の検査で鼻骨を骨折していたことが判明、長期離脱を余儀なくされた。 2000年8月5日の旗揚げ戦での対 垣原賢人がを着用して登場、対戦相手の大森隆男を一方的に叩きのめした試合。 直後に垣原はノアを退団してしまい、原因や経緯など多くが不明のままである。 なお垣原が引退直前にインタビューで語ったところによれば、試合後大森から「悪いけど僕にはああいうのは出来ない」と言われたことに自信を失い、退団を考えるようになったという。 2004年11月4日対 10月、の第4回タフイナフチャレンジで優勝し、WWEとの契約を獲得したダニエル・ピューダーは、11月4日、においてカート・アングルと対戦した。 この際ピューダーはアングルにシュートを仕掛け、ガードポジションからの()を極めるも、異変に気づいたレフェリーがピューダーの肩がマットに着いていると判断し素早く3カウント、ピューダーの負けを宣言した。 ピューダーは9月、WWEのコスト削減を理由に解雇され、へ転向した。 2011年4月28日のチャンピオンシップトーナメント一回戦として行われた対 ファイターのバンナが、元の鈴川の、張り手やタックルを全てかわしパンチやキックで計六回のダウンを奪い、最後は右フックで鈴川を失神させてKO勝ちした試合。 この試合はバンナ側の要求と鈴川側の要求が合わず、KO、ギブアップのみにより勝敗の決まるで行われた。 2015年2月22日の対 大会のメインイベントで行われたのタイトルマッチで、王者の世IV虎に対し、挑戦者の安川が顔面付近を殴ったことに激昂した世IV虎が、安川の顔面を拳打で執拗に攻撃し、安川が闘う意思を見せていたためレフリーは試合を止めず、危険と判断した安川のセコンドを務めたがタオルを投入し、世IV虎のTKO勝ちとなった試合。 試合後に安川は都内の病院に救急搬送され、頬骨、鼻骨、左眼窩(か)底骨折、両目の網膜しんとう症の診断が下された。 後日、この試合は世IV虎のTKO勝利から無効試合に変更され、顔面への過剰な反則攻撃を行った世IV虎はタイトル剥奪及び無期限出場停止の処分を受けた後、自ら引退した(なお、後に他団体で復帰した)。 負傷した安川も、復帰をしたものの怪我の回復がおもわしくなく、ドクターストップがかかり引退となり、両者ともに後味の悪い幕切れとなった。 この試合に関しては、世IV虎の行為はもとより、明らかに実力差のあった選手同士に対してタイトルマッチを組んだスターダムに対しての批判や、危険な状態になっていたにもかかわらず、試合を止めなかったレフェリーのに対しての批判も起こり、顔面を負傷した直後の安川の写真がの表紙になった。 ストーリー破り [ ] カーテンコール事件 1996年5月19日、WWFの興行でバックステージの派閥グループのメンバーが行ったストーリー破り。 この事件当時とはを離れてライバル団体のに移籍することが決まっていた。 この日のメインイベントで、ベビーフェイスのは、ヒールのナッシュとのケージマッチを戦った。 試合が終わるとすぐに、リングに上がったホールはマイケルズを抱擁した。 ここまでは、両者ともにベビーフェイスであったため問題がなかった。 しかしその後、マイケルズはリング上に横たわっていたナッシュにキスし、アンダーカードでヒールとして試合をした(トリプルH)もリングにやってきてマイケルズやホールとハグを交わした。 最終的には敗れてマットに倒れていたナッシュも加わり、4人で観客に向けて "カーテンコール" を行った。 彼らのカーテンコールの行動は、当時、ベビーフェイスとヒールの関係は現実のもので彼らはリングの外においても友人ではないという幻想を維持したいと考えていたWWF首脳陣を憤慨させた。 さらにWWF経営陣は、この興行をカメラで撮影していたファンがいたことを予期していなかった。 この撮影テープは、翌年の1997年10月6日のロウ・イズ・ウォーで、マイケルズとヘルムスリーが、ビンス・マクマホンを怒らせる意図でストーリーライン上で使用された。 マイケルズは当時WWF王者で、団体のトップスターの1人であったために罰せられなかった。 ホールとナッシュはすぐにWCWに去ったため、残ったヘルムスリー1人だけに罰が下され、メインイベントのタイトルマッチを外されて前座の試合でジョバー役を回されるようになった。 しかし彼は、この5ヶ月後にはWWF・IC王座を手に入れる。 1997年11月9日のWWFの特番サバイバー・シリーズでのブレット・ハート対ショーン・マイケルズのWWF王座を賭けた試合で起こったストーリー破り。 通常セメントマッチ及びストーリー破りは試合中にレスラーが行うものであるが、当事件は「団体側による」ストーリー破り(スキャンダルに巻き込むことでストイックなブレットの商品価値を落とそうとたくらんだ)という点が特徴。 事件の衝撃は大きく、絶対的な悪名を得たチェアマンのとそれには歯向かう荒くれ者の抗争をはじめとするアティテュード路線がさらに推し進められることとなり、後のアメリカプロレス史に大きな影響を与えた。 脚注 [ ].

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証言1.4 小川vs橋本 20年目の真実

セメント マッチ

アンドレ・ザ・ジャイアントの死因は?飲酒量が桁外れだった アンドレ・ザ・ジャイアントの死因は急性心不全!長年の飲酒とトレーニング不足が原因だった アンドレ・ザ・ジャイアントは、「人間山脈」「世界8番目の不思議」などの異名で知られた伝説の巨人レスラーです。 信じられないほどの巨体は、ファンの度肝を抜きました。 亡くなった時は46歳と、まだこれからという年齢だったアンドレ・ザ・ジャイアントの死因は急性心不全と伝えられています。 1993年に、父親の葬儀に出席するためフランスに帰国したアンドレ・ザ・ジャイアントは、宿泊先のホテルで急死。 長年に渡る桁外れの飲酒に加え、トレーニングが不足していたため、心臓に負担が掛かりやすい状態だったことが原因と言われています。 アンドレ・ザ・ジャイアントは、1946年5月19日生まれで、1993年1月27日に46歳で没。 フランス・グルノーブル出身で、公式プロフィールによれば、身長223cmで、体重236kgです。 本名はアンドレ・レネ・ロシモフと言い、少年時代は抜群の運動神経を誇ったと言います。 学生時代にサッカーを始めた後は、ボクシングやレスリングにも打ち込んでいましたが、運送会社に勤めていたところをスカウトされて、1964年に18歳でプロレスデビューしました。 その圧倒的な巨体と、アームロックなどのレスリングテクニックを駆使したアンドレ・ザ・ジャイアントは、巨人レスラーとして世界各地を転戦。 日本でも、1970年に初来日して以来、ジャイアント馬場と「大巨人コンビ」として活躍するなど、数々の名勝負を繰り広げました。 アンドレ・ザ・ジャイアントの歯は42本!飲酒量も桁外れ! 体格そのものが桁外れなアンドレ・ザ・ジャイアントは、その人生においても桁外れな伝説の数々を残しています。 なんと彼の歯の本数は、普通の人よりも多かったそうです。 一般的な成人の歯の本数は、親知らずまでカウントすると32本とされています。 しかし、アンドレ・ザ・ジャイアントの歯は42本あったとか。 これは「過剰歯」と言われるもので、奥歯は第5大臼歯まで生えていたというから驚かされます。 そして、もう一つ桁外れだったのが、アンドレ・ザ・ジャイアントの飲酒量です。 1日にビール大瓶40~50本、ワインならば20~30本を飲んだというアルコール好き。 しかも、休肝日などありません。 車で800km移動する間に飲んだ缶ビールの量は118本で、目的地に到着した後にはワインを20リットル近く飲んだと言います。 唯一、日本酒は悪酔いして苦手だったようですが、それでも2升いったというから、やはり怪物です。 札幌ビール園で大ジョッキ78杯を飲んだことなど、アンドレ・ザ・ジャイアントの酒豪ぶりを語るエピソードはてんこ盛りです。 アンドレ・ザ・ジャイアントの伝説対戦とは?アンドレザ・ジャイアントパンダが爆発的人気に! アンドレ・ザ・ジャイアントと前田日明のセメントマッチは映像お蔵入りに!アントニオ猪木の格闘技世界一決定戦は? アンドレ・ザ・ジャイアントは、来日して数々の名勝負を繰り広げました。 とりわけ有名なのが、1986年に前田日明と演じた伝説のセメントマッチです。 このセメントマッチとは、今で言うガチンコマッチのこと。 本物のセメントを使った試合ではありません。 前田日明を潰す目的でセメントマッチを仕掛けたものの、結果は、アンドレ・ザ・ジャイアントがマットに大の字になる形で戦意喪失……。 そのためノーコンテスト(無効試合)の裁定が下され、試合として成立しませんでした。 放送に使えないと判断されたためか、アンドレ・ザ・ジャイアントと前田日明の試合はオンエアされず、映像はお蔵入りに。 一部のマニアの間で伝説の「裏ビデオ」として流通していたといういわくつきの試合となりました。 もちろん、30年以上経った今では鮮明な映像でDVDに収録されています。 もう1つ有名なのが、1976年にアントニオ猪木との間で演じられた「格闘技世界一決定戦」でしょう。 格闘技世界一決定戦の決勝戦という趣向で繰り広げられたシングルマッチで、アントニオ猪木が巨体のアンドレ・ザ・ジャイアントを一本背負いで投げたシーンに、ファンは大きく沸いたものです。 結果は、アントニオ猪木のTKO勝ちで、対アンドレ・ザ・ジャイアント戦初勝利となりました。 アンドレ・ザ・ジャイアントに由来するアンドレザ・ジャイアントパンダ降臨! アンドレザ・ジャイアントパンダとは、その名が示す通り、アンドレ・ザ・ジャイアントの巨体に由来する、身長3mに及ぶ巨大な着ぐるみパンダの姿をしたレスラーです。 本家アンドレ・ザ・ジャイアントをもしのぐ巨体と存在感で、デビューしてからというもの爆発的な人気を集めています。 プロフィールによると、「熊猫山脈」ことアンドレザ・ジャイアントパンダは、中国四川省出身で年齢不詳。 身長3mで、体重は500kgあり、得意技は、光速ヘッドバッドとアンドレザプレスとなっています。 2017年7月のデビュー戦がSNSで話題になると、AbemaTVで元SMAPの香取慎吾らと共演するなど、その人気はうなぎ上りに。 大日本プロレスや上野動物園にも参戦(?)する様子を見れば、その活動は今や全国区と言えるでしょう。 今ではすっかり、各プロレス団体やイベントからのオファーが引く手あまたという人気者です。 アンドレザ・ジャイアントパンダの気になる正体は、実は、北海道のアマチュアプロレス団体「新根室プロレス」に所属するレスラー。 所属する「新根室プロレス」もアンドレザ・ジャイアントパンダ人気で一躍有名になりました。 3mという大きな着ぐるみでありながら、目を見張る俊敏なスピードが売り物のアンドレザ・ジャイアントパンダ。 あの巨大な着ぐるみで素早い動きを見せるのですから、「中の人」は若いレスラーでないと体力的に持たないことでしょう。 アンドレザ・ジャイアントパンダは、プライベートでは「ティンティン」という彼女がいて、2018年3月にパパになるとのこと。 そんなおめでたニュースも手伝ってか、人気はまだまだ衰えそうにありません。 アンドレ・ザ・ジャイアントのドキュメンタリー映画が2018年4月公開決定! 身長223cm、体重236kgという人間離れした巨体で人気を博したアンドレ・ザ・ジャイアント。 その巨体は、まさに彼のニックネームであった「人間山脈」のごとし。 「世界8番目の不思議」などと大仰な異名を奉られても、何ら不思議ではありません。 早くも没後25年になりますが、今もプロレスファンにとって伝説の存在であることは変わりません。 2018年4月には、アンドレ・ザ・ジャイアントの実像を追ったドキュメンタリー映画「Andre The Giant」の公開も予定されています。 アンドレ・ザ・ジャイアントに密着し、彼の知られざる一面を掘り起こしている「Andre The Giant」。 たとえば、半ば興味本位に語られてきたであろう彼の豪快な酒豪伝説に秘められた真実にも光を当てていきます。 「50分でビール108本をたちまち空にした」など、その飲みっぷりを語るエピソードは枚挙にいとまがありませんが、その裏には、度重なる体の痛みとの闘いが隠されていました。 成長ホルモンが過剰に分泌され、内臓や顔の一部が肥大していたアンドレ・ザ・ジャイアントは、その痛みを忘れるため、浴びるようにアルコールを飲んでいたそうです。 また、1980年代中期頃から体重が急激に増加したことにより膝や腰の痛みに悩まされ、全盛期に見せた体のキレが徐々に失われていきました。 その事実を酒で紛らわしたいという思いもあったのかもしれません。 「Andre The Giant」ではまた、自分がもはや長く生きられないと悟っていた事実も浮かび上がらせます。 しかし彼は、どんなに最悪の体調でもリングに立ち、エンターテイメントとしてのスポーツを体現し続けました。 このドキュメンタリー映画を見て、在りし日の伝説の巨人に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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