パウル ツェラン。 パウル・ツェラン: ことばの光跡

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パウル ツェラン

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関学探訪記|文芸誌『PERISTERI』@特集パウル・ツェラン|note

パウル ツェラン

読み始めたのはずいぶん前のことだったと思うけれど、詩というのはなんか一気に読んだりするモノでもないのだろう、とか思ったり、ドイツ語の原文を調べたり(一応、学生時代は第二外国語が独語だったので発音は不正確ながら読めることには読める)、ツェラン自身の朗読の動画を観たりしながら読んだせいで読み終えるのに時間がかかってしまった。 パウル・ツェランについて知ったのは、アドルノで卒論を書いたときに読んでいた細身和之の本だったはずで、これも長いあいだ気になってはいたのだが、手頃な値段で、今年に入るまで手に入れやすい詩集がなく、ようやく読めた感がある(とはいえ、これだって2400円もするんだけれど)。 ツェランの代表的な詩と詩論のアンソロジー。 これが企画されたのは、昨年の地震がきっかけだった、と編・訳者が解説で書いていて、それについては、なにか思うことがなくはない。 はっきり言って、大きな事件に対してツェランを持ち出してくるのは()安易な発想だと思う。 1920年の旧ルーマニアでユダヤ系の家庭に生まれたツェランは、第二次世界大戦中に両親を強制収容所で亡くしている。 その出来事が彼の性格に傷をつけ、それを詩作にした……ざっくりとツェランについて紹介するなら、以上の文言ほど簡潔なものはないだろう。 彼の詩作は、アドルノの「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という警句とほとんどセット販売のように語られ、そして実際、アドルノも「アウシュヴィッツ以降の詩」としてツェランに興味を持ち、実現はしなかったが対談の予定があった、と言われている(その対話はツェランの散文『山中での対話』で仮想的に実現された、と解釈される)。 ひどい言い方をすればツェランは「悲劇の人」であり、それだけにその評価には同情票みたいなものがあるのでは、と思わなくもない。 解説での視点もそうした「悲劇について書き続けた人」として作品が解釈がおこなわれているし、ツェランの作品を読むにつれて、アドルノがツェランに接触しようとしたのも、自分が体験しなかった/できなかった(そしてベンヤミンが受けた)傷を味わってみたかったのでは? という勘ぐりさえしてしまった。 最も有名な作品が「死のフーガ」という身も蓋もないタイトルだし、ここで読めるツェランの作品はすべてが自分の体験した出来事と結びつけて読むこともできる。 死、喪失、痕跡、そうした強いイメージが平易な言葉や、転がるようなリズムと速度の音のなかでより一層深刻さ・乾きを浮きだたせる(訳はその雰囲気をかなり再現しているように思われる)。 その一方で、これらの作品を、すべてツェランが体験した悲劇と結びつけて良いものなのだろうか? とも思うのである。 彼の詩論を読めば、悲劇とはおよそ関係なく、ツェランが典型的なロマンティストであることがわかる。 詩が時間を通り抜けて、永遠性へと到達し、どこかの誰かである「あなた」に届く可能性を、ツェランは詩にかけていた。 それはアドルノが、批評において音楽を言葉に移し替える際に翻訳不可能なもの(浮動的なもの、とアドルノはそれを表現する)を捉えようと努力したこととも通ずる。 これに対してエリック・ドルフィーは「音楽は終わってしまうと共に消え去ってしまい、二度とそれを取り戻すことはできない」と言う。 それは圧倒的に正しい。 詩は永遠性を獲得することや、音楽の周りにうようよと漂っているサムシングを言葉で捉えつくすことは不可能だ。 しかし、だからこそ、ツェランやアドルノはロマンティストなのであり、そうしたところから、私は、悲劇と切り離してツェランを読むことも可能だし、悲劇や傷から彼の作品を読むのは少し貧しいことなのでは、とも思う。 ここで後期の『誰でもないものの薔薇』から「頌歌(Psalm)」を引用しよう(P. 63 - 64)。 頌歌 誰でもないものがぼくらをふたたび土と粘土からこねあげる、 誰でもないものがぼくらの塵に呪文を唱える。 誰でもないものが。 たたえられてあれ、誰でもないものよ。 あなたのために ぼくらは花咲くことをねがう。 あなたに むけて。 ひとつの無で ぼくらはあった、ぼくらはある、ぼくらは ありつづけるだろう、花咲きながら—— 無の、誰でもないものの 薔薇。 魂の透明さを帯びた 花柱、 天の荒漠さを帯びた花粉、 茨の棘の上高く、 おおその上高くぼくらが歌った真紅のことばのために赤い 花冠。 Psalm Niemand knetet uns wieder aus Erde und Lehm, niemand bespricht unsern Staub. Niemand. Gelobt seist du, Niemand. Dir entgegen. 解説においてはツェランが、救済してくれなかった神に対する恨みをこめたもの(神に対する頌歌が、誰でもないもの、無へと捧げられている皮肉)とされている作品だが、誰でもないものの薔薇として咲き続け、そして同時に無である「ぼくら」は、支えるものが何もないイメージが湧いて、ツェランの思いがどうだったか別に、私はこの詩が一番好きだ。 無でありながら、ぼくらは真紅の薔薇である、その矛盾のなかに、なにか、あったかもしれないこと、ありえたことに対する思いのようなものがチラつくような気がして良い。 118• 159• 173• 140• 196• 235• 225• 239• 305• 362• 261•

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パウル・ツェラン / 飯吉 光夫【著】

パウル ツェラン

本書は詩人パウル・ツェランの、日本では初めての評伝です。 パウル・ツェラン(1920〜1970)は、今日では20世紀ヨーロッパの最高峰に属する詩人の1人として揺るぎない地位を獲得していますが、日本の読者にはまだ十分に浸透していないのではないでしょうか。 その詩はあまりにも難解だからです。 本書は、その難解な詩に初めて接する人にもわかりやすく、彼の生涯を素描し、作品の背景と内容を解説しています。 その際、最新の資料を存分に駆使し、ツェランの友人諸氏に行ったインタヴューの成果も生かされています。 執筆に際し、特に留意したのは次の2点です。 ツェランの生涯を12の章に分け、それぞれの時期に書かれた重要な詩の一部から(あるいは多少アレンジして)タイトルをつけました。 12という数字は、ツェランにとってさまざまな象徴的な意味を持ちますが、その1つは時計の円周運動、ある完結を暗示します。 この円周運動には常に遠心力と求心力が作用していますが、遠心力は多くの友人・知人との対話を通して、とりわけ妻と息子との生活を通して、生を拡張しようとする「明」の側面を持ち、求心力は、最愛の母を初めとする強制収容所で亡くなったユダヤの同胞たちへ近づこうとする、「暗」の側面を持っていました。 結局彼は、自ら死を選ぶことによって、生の円環を締めくくるのです。 本書で、円のモチーフを扱った詩を多く取り上げ、その背景を考察したのは以上の理由によります。 次に、ツェランにとっての「母」なるものを絶えず念頭に置きながら、本書を書き進めました。 ツェランにとって母は、幼いときから特別の存在であり、ふたりは共通の趣味である文学を通して精神的にも強固な絆で結ばれていました。 しかし42年、両親はナチスによって収容所へ連行され、ツェランだけが難を逃れます。 その冬、強制収容所の母から、奇跡的に1通の手紙が彼のもとに届きました。 そこには、父が死んだこと、また寒さと虐待から身を守る布が欲しいと書かれていました。 その母もまもなくナチスによる「うなじ撃ち」によって殺されます。 結局、母に届けることができなかった布を、ツェランは詩を書くことによって、言葉の編み物として母に送り続けます。 これ以降、彼が書くすべての詩は、亡き母に捧げられる「織物[テクスト]」となったのです。 そして母よ、あなたは昔のように家で、 あのやさしい、ドイツ語の、痛々しい韻に耐えているのですか?(「墓の近く」) 母のイメージはツェランの多くの詩に現われます。 現存する彼の最初の詩は、16歳の母の日に書かれた詩でした。 最近の研究では、有名な「死のフーガ」も「母の墓碑銘」として書かかれていたことが明らかになっています。 さらに本書でも詳しく述べられる「ゴル事件」(ツェランが濡れ衣を着せられた剽窃疑惑)が紛糾する59年、母への思いを吐露した「オオカミ豆」という101行にも及ぶ長い詩が、最近になって遺稿の中から発見されました。 これは母フリッツィが「羽団扇[はうちわ]豆」を、流布していた外来語「ルピナス」とは呼ばず、そのドイツ語への借用語である「オオカミ豆(Wolfsbohne)」と呼んでいたことを起点にして、懐かしい母への思い出やゴル事件での苦悩を素直に吐露した詩です。 お母さん、彼らは黙っています。 お母さん、彼らは卑劣な奴らが僕を中傷するのに、見て見ぬふりをします。 (…) お母さん、なんと多くの よそよそしい土地があなたを実らせていることか! 難解な詩ばかり書いていた彼の真意が、実はどこにあったかを窺わせる貴重な詩です。 20回も繰り返される「母よ」という呼びかけが、読者の心を「痛々しい韻」のように打ちます。 このように母のイメージを手がかりにすれば、難解に思われたツェランの詩の謎が、極めてわかりやすく、身近に感じられるようになるのです。 本書をひとりでも多くの読者がひもとき、痛々しくも、比類なく美しいツェランの詩の世界に踏み入られること祈ってやみません。

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